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第7話「バンでおんせん!」
「今日はね、温泉行くんだよ」
ユキコがそう言ったとき、ナギの目の前には大きなバンが停まっていた。
ただの車じゃない。車体は丸く、どこか甲羅のように湾曲していて、
よく見ると、タイヤではなくカメの足が生えていた。
「これ……走るの?」
「うん。カメバスさんって言うんだよ」
運転席には、眠そうな目をした初老の男が座っていた。
灰色のシャツに大きすぎる帽子。顔の半分が影になっていて、目がとてもゆっくり瞬いていた。
「のるかい……今日は、三度目の昼だよ……」
ナギは無言のままうなずいて、ユキコと並んでバンに乗った。
中は意外にもひろく、天井には風鈴がいくつもぶらさがっていた。
ゆれるたび、音が鳴るように見えるのに──音が、しなかった。
ナギは静かに座席に腰を下ろした。
ミント色のTシャツが陽に照らされ、くせ毛の髪に光が透ける。
となりに座るユキコは、膝の上で手を組んでいた。
その指は、影だけがしっかりあった。まるで体の一部ではないかのように。
「……おんせん、好き?」
ユキコがふと尋ねた。
「うん、たぶん。行ったことあるような気がする」
「そっか。わたし、あんまり覚えてないの」
そう言ったユキコの顔には笑みがあった。
けれどそれは、紙に印刷されたような表情で──笑っているのに、まばたきがなかった。
到着した温泉宿は、誰もいなかった。
玄関のベルは鳴らず、靴箱には草が生えていた。
「ここで、よく入った気がするんだよね」
ユキコが言う。
更衣室に入ると、ナギはゆっくりと服を脱いだ。
シャツが汗でぺたりと背中に貼りついて、足元のスリッパは片方だけ濡れていた。
「ユキコは……入らないの?」
ユキコは首をかしげた。
その仕草も、なにか“思い出す演技”のように見えた。
「わたし、ここでは……うまく入れないの。湯気のなかで形が変わっちゃうから」
「変わる?」
「うん。ほら──見てて」
ユキコが手を湯気の中にかざすと、指の先がにじんでいった。
皮膚の色がぼやけ、輪郭がとけるように消えかける。
「……だから、見送るね」
ナギはそっと湯の中へ足を入れた。
ぬるま湯だった。温かいはずなのに、なぜか背中が冷えた。
視線を向けると、ガラス越しにユキコが座っていた。
笑っている──でも、その姿が、もう水の中にいる人のように見えた。
目を閉じたナギの耳に、小さく、カメバスのベルの音が響いた気がした。
それは、夢の中でだけ鳴る、帰り道の音だった。