テラーノベル
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第8話「セミを捕まえよう」
セミの声が、まるで壊れた目覚まし時計のように鳴っていた。
ミンミンミンミンミンミンミンミン……
一度も止まらず、間のない音。
空は晴れているのに、雲の影が木々に浮かんでいなかった。
ナギは、虫とり網を持って立っていた。
スニーカーのつま先が土に沈み、ミント色のTシャツの背が少し汗で濡れている。
髪は湿気で重くなり、額に張りついていた。
「セミ、好き?」
ユキコが隣で言った。
彼女は今日も、真っ白な光の中にいるみたいだった。
クリーム色のワンピースは汚れもせず、風がないのに揺れていた。
ユキコの手には、古びた虫かごが提げられていた。中には何も入っていない。
「好きだったかどうか、わからない」
ナギは答えながら、網を構える。
目の前の木の幹に、セミがとまっていた。
だけど──なにかが変だった。
セミは動かない。羽は震えず、脚も枝に貼りついたまま。
なのに、あの鳴き声は、どこかから、絶え間なく聞こえていた。
ナギがそっと近づき、網をかぶせた。
すくいあげるように持ち上げて、中をのぞく。
そこには──何もいなかった。
「……いない」
「うん、セミってね、鳴くけど見えないことがあるんだよ」
ユキコはそう言った。
まるで、それが当たり前のように。
「見えないのに、聞こえるの?」
「ううん。たぶんね、“前に聞いた音”が、鳴ってるだけかも」
ナギはゆっくりと、虫かごを手に取った。
何も入っていないそれは、ただの空っぽの箱だった。
けれど不意に──カゴの底に、うす茶色の抜け殻が1つだけ、落ちていた。
「これ……」
「抜け殻はね、もう鳴かないの。でも、覚えてる」
ナギはその言葉の意味がわからなかった。
けれど、虫かごの中の抜け殻を見ていると、自分の背中が少し軽くなった気がした。
「ナギちゃんも、そのうち脱ぐのかなぁ」
ユキコがぽつりと言った。
ナギは顔をあげた。
「……わたし、何を?」
「うーん、わからないけど……体とか、声とか、そういうの」
ナギは何も言えず、空を見上げた。
貼りついたような水色の空。その下で、ミンミンミンミンミン……
音だけが、永遠の昼を刻んでいた。
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