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夜の帳が降りる頃、ランドルフ公爵邸の塔は黒い霧に覆われていた。その中心に、セレナは静かに立っていた。
指先から漏れる黒魔力が、まるで自律する生き物のように揺らめいている。
(――また、抑えられない)
胸の奥に重たく沈む感情は、恐怖か、罪悪感か。
それともわからない何かが、ゆっくりと彼女を侵食していた。
そのとき――扉の向こうで誰かが息を呑む音がした。
「……セレナ様? お戻りになっていたのですね」
家令モートンだった。
だが、その声には隠しようのない震えがある。
セレナはゆっくりと振り返る。
「モートン……私、怖いの。
――このままだと、誰かを傷つけてしまう」
「……セレナ様のお心が乱れている証拠でございます。無理もありません。
ですが、決してご自分をお責めにならぬよう……」
そう言いながら、彼は何かを隠すように手を背中へ回した。
その仕草が、逆に不自然だった。
「……何を持っているの?」
モートンがわずかに肩を震わせた。
「……これは、公爵様から預かったものです。
あなたの“呪い”に関する古い記録でございます」
彼は古びた木箱をセレナへ差し出した。
セレナが受け取ると、黒魔力が箱を覆い、古い封印がパキリと音を立てて割れた。
――封印を破ったのは、呪いそのもの。
(……嫌な予感がする)
セレナは震える指で蓋を開けた。
中には、一冊の革表紙の書物が入っていた。
表紙には黒薔薇と、奇妙な紋章。
「“喰魔録(しょくまろく)”……?」
モートンが深くうなずく。
「はい。公爵家に伝わる禁書でございます。
かつて王家が隠蔽した“呪われた血脈”の記録――」
セレナは思わず息をのんだ。
「わたしの呪いの、元……?」
「セレナ様……お読みになる前に、ひとつ申し上げたいことがございます」
老いた家令は、長年隠してきた秘密を吐き出すように話し始めた。
「あなたの母君――“黒き王妃”と呼ばれた女性は、
かつて王家に仕えた特異な血を持つ魔術師でした」
「……母が?」
初めて聞く事実だった。
モートンは続ける。
「その血には、生命力や魔力を“喰らう”性質がありました。
王家はそれを兵器として利用しようとし……
しかし、制御できずに多くの者を死なせてしまったのです」
セレナの胸が強く縮む。
(じゃあ、私の力は……)
「その暴走を恐れ、王家は母君と血筋を“抹消”する命令を下しました。
ですがランドルフ公爵様は、命を賭してあなたを守り抜いたのです」
セレナの手が震え、書物を握りしめた。
「……私は、生まれるべきじゃなかった」
その呟きが漏れた瞬間、黒い魔力が部屋中を揺らすように吹き荒れた。
モートンは必死に頭を下げる。
「いいえ! それだけは違います!
あなたは……公爵様の、そして私たち全員の大切な娘です!」
だが魔力は収まらなかった。
怒りでも悲しみでもない――
“拒絶” だ。
自分自身への。
「セレナ様、どうか……!」
「お願い、落ち着いてください……!」
「このままでは――!」
その声は、次の瞬間、黒霧に呑まれて消えた。
一方その頃。
王宮の図書塔で、ルシアンは急ぎ古文書を読み漁っていた。
(“喰魔の呪い”……セレナの力。
あれは絶対に、ただの災厄なんかじゃない)
手が震える。
心臓が激しく脈打つ。
(俺が……彼女を殺す?
そんな未来、絶対に受け入れない)
必死に頁をめくるその目が、ある記述で止まった。
> 《喰魔は、愛する者の感情に反応し、強くなる》
ルシアンは呟いた。
「……じゃあ、俺が……セレナを想うほど、彼女の呪いは――」
読んではいけない言葉を、目が追ってしまう。
> 《喰魔は“愛”を糧に成長し、
やがてその愛した者を喰い尽くす》
息が止まった。
胸にひどい痛みが走る。
「……そんな……馬鹿な……」
涙が滲む。
そのときだった。
塔の窓が音を立てて震え、
遠く、公爵邸のある北の方角に――
黒い柱のような魔力が立ち昇るのが見えた。
「……セレナ!!」
ルシアンは本を放り出し、全力で駆けだした。
公爵邸の塔。
黒霧が渦を巻き、家具も花も絨毯も、生命を持つものは次々と朽ち果てていく。
その中心で、セレナは膝を抱え、震えていた。
「ごめんなさい……
ごめんなさい……わたし……っ……!」
黒い薔薇の呪いが形を成し、彼女の背後で“何か”が芽吹き始める。
漆黒の花弁。
歪んだ茎。
生きた影のような蔦。
それは、彼女の感情そのもの――
喰魔の本性が、初めて目を覚まそうとしていた。
塔は軋み、空気は崩壊し、闇が世界を侵食する。
そのとき――
「セレナ!!」
ルシアンの声が、黒霧を切り裂いた。
振り返ったセレナの瞳は、涙で濡れ、
そして――黒い光を宿していた。
「……どうして来たの……」
その声は、泣き声にも、呪いの囁きにも聞こえた。
王国を揺るがす“黒薔薇の覚醒”が、いま始まった。