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「ちょっと待って。ここ、いくら?」
どこからどう見ても、スイートルーム。
チェックインした龍也が、エレベーターの三十二階のボタンを押した時からわかっていたけれど。
「言ったろ? 千尋のお父さんが――」
「――それでも!」
HOTEL NEW LIBBERの、しかもTHE・TOWERのスイートルームなんて、一介のサラリーマンが泊まる部屋じゃあない。
いくら副社長に融通を利かせてもらったにしても、だ。
その上、食事もルームサービスで手配済みだからって、お腹を空かせてやって来た。
ドアを開けた瞬間、目に飛び込んで来たのは、群青色の空に、打ち寄せる波のように泡立つ漆黒の雲、階下に輝くオレンジ色の灯。妖しくも美しい景色に、立ち竦んだ。
「結婚式もしてないし、新婚旅行も行ってないから、さ」
龍也が荷物を下ろし、開け放たれたドアの向こうを覗きながら言った。
「旅行はそのうち、どっか行こうな」
「けど――」
「――嬉しくなかった?」
窓の向こうに魅入る私を、龍也が背後から抱き締めた。
綺麗に磨かれた窓に映った彼と、視線が絡む。
「嬉しい……よ」
折角連れて来てくれたのに、可愛くないことを言ってしまったと後悔したけれど、それでもお値段が気になって仕方がない。
龍也が私の肩におでこを押し付け、彼の前髪が首筋をくすぐる。
「みんなからの結婚祝い、だってさ」
「え?」
「引っ越しの時に色々貰ったけど、改まって結婚祝いはなかったからって。だから、値段は気にせずに、喜んで」
私は胸の前で交差する龍也の腕に手を添えた。
「それを早く言ってよ」
「あわよくば、俺からのプレゼントだと思って、喜んで抱きついてくれるかと思ったんだけど」
「私がそんなキャラ?」
「九割は俺の願望」
龍也の吐息がかかったところから、熱が広がる。
耳朶に、彼の唇が触れる。
「あきらと結婚出来て、嬉しい」
鼓膜が震える。
鼓動が加速する。
「あきらは? 俺と結婚したこと、後悔してない?」
龍也の声が、震えた気がした。
少し甘えた、いつもより高くて小さな声。
「どうしたの?」
「強引に釧路にさらった自覚は、あるんだ」
私は、ふふっと息を弾ませた。
「私が嫌々さらわれるように見える?」
「見えないけど、慣れない土地で、慣れない仕事して、あきらは――」
「――楽しいよ?」
「え?」
「お弁当屋さん。お客さんにね、毎日来てくれる人が何人かいるんだけど、毎日同じお弁当を買って行く人もいれば、毎日違うお弁当を買って行く人もいるの。だけど、時々、いつもと違うお弁当を買って行く時もあるし、二日続けて同じお弁当を買って行く時もあるの。それでも、毎日来てくれるの。それが、嬉しいんだ」
「ふーん?」
群青色だった空が、黒く塗りつぶされていく。いくつもの車のライトが、遠ざかって行く。近づいてくる。
空と一体となった雲の隙間から、星が見えたり、隠れたり。
「毎日弁当を買いに来るのって、男?」
「え?」
「その男が来ると、嬉しくて楽しいの?」
龍也が、窓越しにじっと私を見ている。
「お客さんに、ヤキモチ?」
「弁当じゃなくて、あきらが目当てかもしれないじゃん」
「エプロンに帽子とマスクって格好だよ?」
私が笑うと、龍也が少しいじけた表情をして、私の肩に顔を伏せた。
「後悔してるって言ったら、どうするの?」
「謝る」
「それから?」
「それだけ」
「それだけ?」
「うん。それだけ――」
急にグイッと肩を掴まれて、身体が反転した。
両手で頬を挟まれて持ち上げられる。
唇が、重なる。
まつ毛が、触れる。
「――だって、手放してはあげられないから」
身体を窓に押し付けられて、強く唇を吸われた。
龍也の手が私の首筋を伝う。
ネックレスのチェーンに、触れる。
私も、触れた。
龍也のネックレスのチェーンに指を絡め、服の襟から引き出した。
私の名前が刻印されたプレートに口づける。
「首輪付きじゃ、どこにも逃げられないじゃない」
龍也が満足そうに微笑んだ。
綺麗に磨かれた窓が、二人の吐息で白く曇り、二人の汗が車のライトを滲ませた。
—– END —–