研究室のイメージとはかけ離れたお洒落なオフィスのような部屋には、暖かな陽射しが差し込んでいた。
私は手にしていた絵本をそっとテーブルに置いた。
そして、向かい合って座っている男性を真っ直ぐに見つめ、意を決して、言いたくはない言葉を切り出した。
「今まで、本当にありがとうございました。このご恩は一生忘れません」
彼は絵本を見つめ、深々とソファに座ったままなにも言わなかった。
綺麗にセットされた髪からのぞく端正な顔は、変わらず冷静で無表情だった。
長い脚に細身のパンツを履き、グレイのベストを着ているその毅然とした姿は、大学教授というよりかは一流会社の経営者という方が相応しかった。
この素敵な姿を目にすることも、もうないのだろう。
この方と交流した日々は、私にとってまるで夢のような時間だった。
「勉強の方は続けるのかい」
「はい、検定に挑戦する気持ちは変わりません。絵本も公共図書館や他の大学にもあるそうなので、足を運んで探してみます」
「だが、うちほど所蔵しているところはないだろうね」
「そう、ですね……残念ですけれど」
今や絵本よりも、この方に会えなくなることの方がつらかった。
でも彼にとっては良いことだ。
多忙であるのにもかかわらず、学生でもない私のためにたくさんの時間を割いて、本当に親切にしてくださったのだから。
「……なら、どうだい? 最後に今夜、食事でも。君のこれからを鼓舞する意も兼ねて」
「そんな……。ありがたいんですが、遠慮させていただきます。先生もお忙しいだろうし」
「俺はたまたま予定が空いているんだ。気にすることはない」
この方との交流がいつまでも続くものではないと、さんざん自分に言い聞かせていた。
だから、もうきっぱり、ここでお別れしよう。
私は振り切るように立ち上がって、ぺこりと頭を下げた。
「名残惜しさが増してしまいますから。今まで本当にありがとうございました。先生もどうかお元気で」
最後にもう一度だけ、彼の顔を見たかった。
けれども勇気が出せなかった。
どうしてか、泣きそうになる。
足早に研究室を出て行こうとしたその時――不意に、伸びてきた長い腕が壁に手をつき、私の行く手を阻む。
思わず見上げると、彼の顔が目の前にあった。
今まで見たこともないような、焦りともいうべき表情をにじませて。
「結婚して欲しい」
硬質の落ち着いた声で紡ぎ出された衝撃の言葉に、私は耳を疑った。
「俺と結婚して欲しい」
「……え?」
「俺の伴侶になってくれるのなら、君の生活も勉学もすべて面倒見る。君が夢を叶えられるよう、全力を尽くそう」
黒い瞳が真っ直ぐに見つめてくる。
そこに宿る熱に、混乱する私の脳内も溶かされていくような気がした。
「君となら、結婚してもいいと思ったんだ」
「え、えっと……」
「君を不幸にはしない。けして。だから――」
手を握られた。
その力強さに、熱に、ぎゅうとつかまれてしまったのは、きっと心も一緒だったかもしれない。
コメント
0件
👏 最初のコメントを書いて作者に喜んでもらおう!