誰にでも居場所ってあるだろうか。教室でも、部室でもなくて、ただ自分だけがふと足を止めたくなる場所。俺にとって、その場所はたぶん校舎の端っこにある小さな庭と、その脇にある薄暗い部屋だった。誰もが通り過ぎる廊下沿いの、ちょっとした安らぎのための空間。そこに、彼女はよくいた。
最初は気にも留めていなかった。夕暮れ時にふと窓の外を見れば、小さな影が花壇の手入れをしている。ふわりとした作業着に素手で土を触る手、腰にぶら下げた道具袋。顔はしかめっ面で、口はいつも少し厳しげに結ばれている。無造作に束ねた髪の後れ毛が風に揺れるたび、俺はなぜか足を止めてしまう。
「せ〜んせい、おっはよ」
俺が最初に声をかけたのは、別に意味があったわけじゃない。教室へ向かう途中、ふと通りかかったら彼女が窓際で雑巾を絞っていた。習慣のように口が動いた。返事は小さく、でも確かに届いた。
「おはようございます」
それだけのやりとりだった。別に仲良くなるために話しかけたわけじゃなくて、たまたま居合わせた挨拶だった。だけど、その日から俺は、ちょくちょく挨拶をした。今となってはなんだか照れくさくなった。彼女のことをちょっとだけ意識するようになったのだろう。
彼女はいつも忙しそうだった。布団を干したり、消毒用の薬瓶を並べ替えたり、保健室の角に置かれた小さな椅子を拭いたり。怪我をした生徒に冷静に処置をし、熱のある子には落ち着いた声で
「無理しないの」
と言い、運動後にふらつく子には
「気をつけなさい」
と少し厳しめに釘を刺す。目の端で見る彼女の動作は、常に無駄がなく、無駄がないからこそ余計に人の目を引いた。
周りの評判は厳しい。サボって保健室へ行くやつは叱られるし、往診のときにふざけていると冷たい視線を向けられる。生徒指導の堅物と勘違いされることもあるらしい。クラスメイトが言うには「怒ると怖い」らしいし、実際に怪我で保健室を訪れたやつらは唸るように「あの先生、ちょっと、、」と口にする。でも、俺は違うと知っている。違うっていうより、見えているものが少し違っただけなんだ。
あのしかめっ面は、素の表情だ。眉間に寄せるしわは、考え事のしるしで、険しく結んだ口は自分に対する苛立ちのわずかな表れに見える。誰かを叱る時の厳しさは、対処ができない不甲斐ない自分へ、俺にはすぐにわかった。熱のある生徒に「もう一回寝てなさい」と促すときの声は、最初に見たときのしかめっ面とは似ても似つかない、ほのかな温度を帯びていた。
放課後、わざとらしく遠回りして廊下を歩くと、角を曲がったところで彼女が花壇の草むしりをしていることがある。手に鉢を持って小さな花を移植している姿を見ていると、胸がふわりと軽くなる。なぜだろう、誰かの仕事をただ眺めているだけなのに、心が落ち着く。
何度か、保健室に顔を出した。怪我をしているわけでも、具合が悪いわけでもない。ただ、通りかかると「おはよう」と言いたくなるだけ。彼女は覚えていてくれる。俺の名前を言わなくても、どんな顔で来るかで区別してくれるような気がした。「おはようございます」の後に、少しだけ雑談を交わす。天気のこと、授業のこと。彼女は効率的に返すが、どこか余白がある。俺が思うには、その余白は誰にも埋められない温度みたいなものだ。
クラスメイトには内緒で通っているわけでもない。だが、彼女に対する特別な思いはまだ誰にも明かしていない。言葉にすると嘘めくようで、声に出す勇気もない。大げさに言えば、俺は彼女を「先生」としてではなく、一人の人として見ている。最初はそれが分からなかった。俺は表情に出ないぶん強かだと自分でも思う。だが、彼女の前だと、何かが緩む。
ある日、友人と保健室の前を歩いていると、足を止めた俺の手が無意識に伸びていた。友人は冗談めかして言う。「あいつ、怖いだろ。近寄りがたいってみんな言ってるぞ」。俺は小さく笑って誤魔化した。けれど内心では反論したかった。彼女の厳しい物腰の裏にある優しさを、そばで見ている俺だけが知っている、と。
それは、誰でもない俺の秘密だ。だからこそ、少し優越感すら覚える。けれど同時に、胸の奥に生まれる焦りもあった。彼女のそんな性格を一部の生徒は知っている。その現状がちょっと、寂しかった。
俺は、徐々に行動を変えた。朝の教室に行く前、軽く遠回りして保健室の前を通る。窓越しに彼女を見かければ、つい中へ入ってしまう。来るたびに簡単な理由を付ける。「友達の付きそい」
「ちょっと気分が悪くて」
――そんな適当な理由を重ねているうちに、彼女は驚くほど自然に俺を受け入れてくれた。「無理しないの」と言い、消毒用のガーゼを渡すときは無言で眼差しがほんわかする。
一度、帰りが遅くなってしまった日がある。雨がさっきまで降っていて、足元がぬかるんでいる。そんな時に彼女を見かけた。保健室の窓から漏れる明かりの下、彼女はひとり、布団を干していた。濡れた髪の束が首筋に張り付き、彼女のしかめっ面がいっそう険しく見える。俺はその場でじっと見ていた。心が痛んだ。どうしてかは説明できないけれど、彼女が濡れていると、自分が守らなければならないような気持ちになる。
「何してるんですか、こんな時間に」
小さな声で尋ねると、彼女は少し驚いて顔を上げた。驚いた顔は、それだけで人を柔らかくする。
「布団が湿っててね。乾かしておかないとカビ生えちゃうでしょ」
そう言って、手際よく布団を織り直す。無駄がない。黙って少し手伝うと「ありがとう」とだけ言った。たったそれだけのやりとりで、俺の夕暮れは少しだけ暖かくなった。
笑うとき、彼女の顔は全然違う。しかめっ面のときに見せる鋭さは消え、目元がふわっと柔らかくなる。そういう一瞬に出会うことは、俺にとって小さなご褒美みたいなものだった。だが、そんな表情を人前で見せないのが彼女の流儀だ。だから、俺は距離を詰める努力をした。普段の会話を少し増やし、保健室での世間話に混じる。彼女の趣味や、好きな食べ物、週末の過ごし方をさりげなく聞き出す。
意外にも、彼女はお笑いの話が好きだった。休日は貯めたお笑いを見て過ごすことがあるらしい。花壇に植える花は彼女のちょっとした癒しで、花を彼女は特に愛おしそうに語った。
それをきっかけに、花を調べた。花言葉、育て方、花壇の土の混ぜ方。俺は聞く側に回りながら、自分でも図書室で図鑑を探した。最初は彼女に話題を合わせるための行動だった。けれど、知るほどに花自体が好きになり、彼女が好きなものなら自分も好きでいたいと自然に思うようになった。
彼女と話す時間は次第に増えた。小さな気遣いを意識して、それを実践する。体調が悪そうな生徒を見ると、俺はすぐに保健室に知らせに行ったり、授業の間に彼女が去ったら机を拭いたり。そんなことをいくつもやるうちに、彼女は俺の名前を覚えてくれた。彼女が俺の顔を見て微笑む瞬間、それだけで世界が明るくなる。俺は変わっていったのかもしれない。大人しさの奥に潜んでいた強かさが、彼女のために使われ始めた。
それでも、俺はあまり自分の気持ちを言葉にしない。そもそも、表情に乏しい方だし、告白のような劇的なことは得意じゃない。だが、一度だけ、ふざけ半分で口にしたことがある。保健室のドアを開けると彼女がちょうど休憩をしていて、コーヒーを片手に書類をめくっていた。
「先生、好きだよ」
軽い気持ち、、いや、少し期待したつもりで言った。友人のノリでふざけて言ったようなものだ。意外にも彼女は一瞬だけ顔を上げて、真顔で言った。
「未成年者はお断りです」
その一語に、俺の胸の中に居座っていた甘さがすっと引いた。冗談めかしたやり取りは、そのまま日常の調子に戻っていったけれど、俺はその「未成年者」という言葉の重みを胸にしまった。遠い未来、いつかこの言葉が笑い話になる日が来るのだろうか。そんなことを思いながら、俺はその日の帰り道に思い込んだ。
卒業や進路のことを考える年頃になって、俺の気持ちは少しずつ形を変えていった。彼女は相変わらず保健室の仕事に追われる日々を送っている。生徒の相談に乗り、教員同士の折衝に顔を出し、外来の手配もしなければならない。俺はそこに静かに寄り添い続けるつもりだった。だが、現実はいつも少しずつ前へ進んでいく。
大学進学を考えると、俺と彼女の距離は物理的に離れていく。そう考えると、胸がひりひりと痛む。
俺は決めている。遠い未来でいい、必ずまた会いに来ようと。五年後でも十年後でもいい。もしも同窓会があるなら、そのときは保健室の前に立っているだろう。彼女には今のままのしかめっ面でいてほしい。変わらないでくれという願いはわがままだが、俺の望みはそれだけではない。
未来のことを考えると不安になる。けれど同時に、確かな希望もある。いつか大人になった俺が、彼女の前に花を手に立つ日を想像する。保健室の扉をノックする瞬間、彼女は年齢を重ねているかもしれない。少しだけ白髪交じりの髪を束ねているかもしれない。それでも、あの厳しげなしかめっ面と、不意に見せる優しい笑顔は変わらないだろう。
「先生、俺、また来ます」
その言葉はけっして告白ではない。今の俺にはまだ遠すぎる。だけど、一つだけ約束しておきたかった。忘れないこと、そして忘れられないように、時々でいいから戻ってくること。そうして、またこの保健室の窓の外に咲いた花を、一緒に見られたらいい。
別れ際、彼女はいつもの「気をつけなさい」を口にして別れた。俺は息を吸って、また来ると心の中で繰り返した。
五年後か十年後か、同窓会か偶然の再会か。理由はなんでもいい。俺はそっと花を一輪用意して、彼女の前に立つ。ミモザの花がいいなぁ。そういう未来の自分を想像していると、今の静かな日々がもっと愛おしくなる。
せんっせい、どうか俺のことを忘れないでくださいね。無理しないでください。気をつけてください。いつまでも、しかめっ面のままでいいから。だけど、時々は笑ってください。それで十分です。
校舎の片隅に咲いた小さな黄色い花が、春の匂いとともに揺れていた。俺はそこで、そっと目を閉じた。
ミモザ___密かな恋。






