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「そなたは」
清帝は、ゆっくりと言った。
「余が見た姿より、ずっと遠くから来ていたのだな」
青鱗は少しだけ眉を動かした。
「魚は、美しいだけでは生きられない」
その言葉に、清帝はしばらく黙った。
それは、魚だけの話ではなかった。
「……王も、同じであった」
青鱗が清帝を見る。
「王?」
「美しい治世だけでは、国は保てぬ」
清帝は水面を見つめた。
「飢えた地へ米を送れば、別の地の蔵が空く。罪を裁けば、その家の子が泣く。赦せば、泣いた者が余を恨む。川を治めるために村を移せば、移された者は余を恨む。移さねば、次の増水でさらに多くが流される」
青鱗は黙って聞いていた。
「誰も汚さぬまま、国を保つことはできなかった」
清帝は少しだけ息を吐いた。
「余の歩いた道にも、濁りはあった」
青鱗の目が、ほんのわずかに揺れた。
同情とも、許しとも違う。
ただ、聞いていた。
「だから、あの日」
清帝は、そこで一度言葉を切った。
あの日の御膳を、余は忘れられなかった。
そう言いかけて、やめた。
それでは、また青鱗を御膳の中へ戻してしまう。
清帝は、言葉を選んだ。
「あの日、余は救われた」
青鱗の指が、水辺の石に触れた。
「私に?」
清帝は首を横に振った。
「そなたが余を救うためにいた、などとは言わぬ」
その一言を置いてから、清帝は青鱗を見た。
「そなたは、黄河で己の生を泳いでいた。余へ向かう道など、そこにはなかった。それは分かっている」
青鱗は答えなかった。
「だが、そなたの命を、炊源の手を通して受け取った時、余の内で確かに何かがほどけた」
水庭の風が、二人の間を抜けた。
「それを、余は長く、美味という言葉だけで抱えていた」
青鱗は、すぐには答えなかった。
長い沈黙だった。
「私は」
青鱗は言った。
「私の死を、あなたの救いに変えられるのは困る」
「変えぬ」
清帝はすぐに答えた。
「私は、あなたの膳に上がるために黄河を泳いでいた覚えもない」
「それも分かっている」
「なら、なぜ救われたなどと言う」
清帝は逃げなかった。
「余の側に起きたことだからだ」
その声は低かった。
「そなたの死へ、余が意味を与えることはできぬ。そなたの生きた黄河を、余のための道筋にすることもできぬ」
清帝は、水面を見た。
「だが、受け取った余の内には、確かに変化が残った」
青鱗は黙っていた。
「余は、そなたを一膳の記憶の中だけに留めていた」
青鱗の目が、わずかに細くなる。
「留めていた」
「そうだ」
清帝は青鱗を見た。
「そして、そこに留まらぬものを、見ずにいた」
青鱗は目を伏せた。
「言葉を選んだのか」
「選んだ」
「まだ、選び損ねているかもしれない」
「そうであろうな」
清帝は、かすかに口元を緩めた。
笑みというより、自嘲に近いものだった。
「余は、まだこの場の作法を知らぬ」
青鱗は清帝を見た。
帝であった者が、知らぬと言った。
その一言を、急いで喜ばない方がよいと思った。
「あなたにも、濁った水があったのだな」
青鱗が言うと、清帝は静かに頷いた。
「あった」
「泥の中で、餌を探したことはないだろう」
清帝は、すぐには答えなかった。
黄河の水音や、渇いた泥の重さを聞いた後で、自分の生きた濁りを並べることが、果たして許されるのかを、一度確かめるような間だった。
「ないな」
「それはそうだ」
清帝は少しだけ目を細めた。
「だが、泥を避けて通れぬ日はあった」
青鱗は、水庭の水面へ視線を戻した。
ここは黄河と違う。水は静かで、底まで見える。
それでも、清帝の言葉を聞いた後では、少しだけ違って見えた。
「それなら」
青鱗は言った。
「少しは分かる」
清帝は何も言わなかった。
青鱗も、それ以上は言わなかった。
二人はしばらく、静かな水を見ていた。
黄河とは違う水。だが、何かを映すことはできる水。
清帝は、青鱗の横顔を見た。
胸の奥に、また言葉が浮かんだ。
だが、今度は水面へ沈めた。
風が吹き、水面が小さく揺れた。
その揺らぎの中で、銀青の影が静かにほどけ、また形を結んだ。
コメント
1件
第12話、読み終えました。清帝が「泥を避けて通れぬ日はあった」と認める場面、とても印象的でした。王としての濁りを語りながら、青鱗の死を「自分の救い」に変えようとしない慎重さに、二人の距離が少しずつ縮まっていくのを感じました。静かな水庭の対話が、ここまで深くなるとは。次が気になります。