テラーノベル
アプリでサクサク楽しめる
水庭を離れ、天灯食堂へ戻る途中だった。
すれ違いざま、青鱗はふと足を緩めた。
妙に、腹の奥を刺激する香りがした。
青臭く、淡く、水気を含んだ匂い。
どこかで知っている。
思わず振り向く。
二人の男が、青鱗とは反対の方向へ歩きながら話していた。
「お前、まだ気にしてんの?」
「気にするだろ。やっと一人前に伸びたところだったんだぞ」
「何の話だよ」
「生前」
男は不満そうに言った。
「俺、蒲菜だったんだよ」
青鱗の足が止まった。
「ようやく葉も伸びて、これからってところで人間に刈られた。あれは本当に悔しかった」
「植物でもそういうのあるんだな」
「あるに決まってんだろ」
二人の声が、少しずつ遠ざかっていく。
「それなのに最近、天灯食堂で蒲菜のスープ、よく見るんだよな」
「食えば?」
「絶対食わねえ」
「うまいらしいぞ」
「だから余計嫌なんだよ」
笑い声が遠ざかり、やがて聞こえなくなった。
青鱗は、その場に立っていた。
蒲菜。
澄んだ湯。
白い豆腐。
淡い青さを残した若い茎。
匙ですくった時の、柔らかな香り。
――悪くない。
自分は、そう思っていた。
何度も選んだ。
むしろ、気に入っていた。
男が残していった香りは、まだ空気の中にわずかに漂っている。
やはり、心地よい香りだった。
青鱗はそのことを、今度は少しだけ嫌だと思った。
食堂の入口には、今日も献立札が出ていた。
その端に、小さく蒲菜の文字がある。
青鱗はしばらくそれを見てから、何も言わずに目を逸らした。
*
水庭で青鱗と別れた後、清帝は回廊を歩いていた。
水の音はもう遠い。だが、青鱗の言葉はまだ耳に残っている。
魚は、美しいだけでは生きられない。
王も、そうであった。
その言葉を胸の内で確かめた時、回廊の先で声がした。
「――見つけたぞ」
清帝は足を止めた。
一人の男が立っていた。こちらへ来て間もない者がまとう、簡素な衣。痩せた頬。燃えるような目。
清帝は、その目に覚えがあった。
北の倉を巡る騒乱。飢えた民。檄文を掲げ、人を集めた男。
そして、処刑の朱印。
「お前だ」
男は低く言った。
「俺を斬った皇帝」
清帝は男を見た。
「覚えている」
「なぜだ、なぜ斬った」
「そなたの訴えには、正しい部分があった」
男の顔が歪んだ。
「なら」
「だが、そなたの檄は火になった」
清帝は静かに言った。
「三つの州で兵が動きかけた。倉を開く前に倉が焼かれれば、飢えた民はさらに死ぬ。官を裁く前に州城が落ちれば、罪なき者まで巻き込まれる」
男の手が震えた。
「だから俺を斬ったのか」
「国を割る火種として扱った」
「人ではなく」
清帝は答えなかった。
男は低く笑った。
「そうだろうな。お前らはいつもそうだ。国、秩序、民、治水、飢え。大きい言葉の下に、人の顔を埋める」
男は自分の喉に手を当てた。
「お前にとって俺は、国を守るために落とす首だった。だが俺にとっては、この首一つで全部だった。妻の夫で、子の父で、母の息子だった」
清帝は何も言わなかった。
「返せ」
男は叫んだ。
「俺の家を返せ。俺の名を返せ。俺の子が背負った恥を返せ」
次の瞬間、男は清帝へ殴りかかった。
周囲の者たちが動いた。数人が男の腕を掴み、見回りの者が間に入る。男は暴れ、なおも清帝へ手を伸ばした。
「離せ!一度でいいから殴らせろ!」
清帝は動かなかった。
「傷つけるな」
見回りの者へ向けた声は低かった。
男は押さえられながら吼えた。
「俺を斬った時は、傷つけるななどと言わなかっただろう!」
清帝の目が、わずかに揺れた。
男はそれを見て、ひどく歪んだ笑みを浮かべた。
「今さら人の顔をするな。血も涙もない皇帝のままでいろ。その方が、まだ憎みやすい」
清帝は静かに男を見た。
「余を憎め」
男の動きが止まった。
「余は、あの日の裁きを取り消さぬ。だが、そなたの怒りを誤りとも言わぬ」
男の顔が崩れた。
「俺は許さない」
「そうであろう」
「死んでも、俺はお前を許さない」
「受ける」
男はもう一度暴れた。
見回りの者たちは、男を傷つけぬよう慎重に押さえながら、回廊の外へ連れていった。
男の声が、角の向こうへ消えていく。
俺は許さない。
その声の余韻だけが、しばらく回廊に残っていた。
コメント
1件
うわぁ……第13話、重い……!😭 青鱗が蒲菜のスープを「少しだけ嫌だと思った」ところ、あの静かな罪悪感が刺さりました。そして清帝と男の対峙。「俺は許さない」「受ける」――短い言葉なのに、どっちも逃げない覚悟が伝わってきて鳥肌……。憎み続けることも、それを受け止めることも、どっちも愛の裏返しなんだなって。次の展開が気になりすぎます…!