テラーノベル
アプリでサクサク楽しめる
コメント
0件
👏 最初のコメントを書いて作者に喜んでもらおう!
謹慎期間が明け、私が久しぶりに警視庁捜査一課のフロアに足を踏み入れたとき、最初に出迎えたのは、かつての教育係である小宮さんの変わり果てた姿だった。
「……小宮さん、ですか?」
デスクで書類の山に埋もれていた男は、頬が削げ落ち、目の周りにはどす黒い隈が張り付いている。一ヶ月前までの、少し脂の乗った中堅刑事の面影はどこにもない。
「おお……南……戻ったか……」
幽霊のような掠れた声。私が駆け寄ると、彼は震える手で私の腕を掴んだ。
「頼む、南。もう限界だ……。柊を……あの男を、お前の担当に戻してくれ……」
「何があったんですか? そんなに痩せ細って」
小宮さんは遠くを見るような目で、語り始めた。
私がいない間、小宮さんが柊さんのコンビ役を務めていた。事件の解決速度自体は、確かに異常なほど早かったらしい。だが、問題はそのプロセスだった。
柊さんは犯人を言い当てるなり、相手の最も触れられたくない過去やトラウマを、冷徹な観察眼で正確に抉り出し
「こんな短絡的な事件を起こすなんて、詐欺師から見れば二流以下だ」
「もっとマシなやり方があっただろう」
と、犯人の自尊心を徹底的に粉砕する。犯人が隠していた本当の動機を、さも退屈な物語を解説するように暴き立てる。
そんな日々が続いたらしい。
「なまじっか奴の観察眼が正解なだけに、犯人は完全にキレるんだ。毎回、現場が刃物を持った犯人との格闘戦になる……。俺はもう、いつ刺されてもおかしくない……」
小宮さんは涙目で訴えた。私のときは、確かに柊さんは不遜だったが、そこまで現場を炎上させることはなかった気がする。彼なりに、私というブレーキがいないことで、悪意のリミッターを外していたのだろうか。
「……おはよう、葵さん。随分と長く、暗い部屋で自分を責めていたようだね」
背後から響いた、あの低く洗練された声。振り返ると、柊さんがグレーのコートを腕にかけ、いつもの掴みどころのない笑みを浮かべて立っていた。
一瞬、心臓が跳ねた。レストランで暴かれた、二十年前の真実。私の母を騙し、私の人生の転換点に居合わせた詐欺師。怒り、憎しみ、そしてどうしようもない喪失感。それらが複雑に絡み合い、言葉が出てこない。
柊さんも、私の瞳の奥にある拒絶を読み取ったのだろう。微笑を消し、わずかに目を細めた。そこにあるのは、友情でも信頼でもない。互いの汚れを知ってしまった者同士の、ひりつくような静寂だった。
その重苦しい空気を切り裂くように、室内に電話が鳴り響いた。
「事件だ! 港区のマンション、看護師の女性が自宅で倒れているとの通報。救急隊が駆けつけたが、すでに死亡。……死因が不明だ。一課に出動要請!」
小宮さんが、ゾンビのような動きでコートを掴む。
「南、行くぞ……。現場で柊を抑えるのはお前の役目だ」
「……わかりました」
私は、柊さんに一度も視線を合わせることなく、歩き出した。
だが、ふと横を見ると、柊さんが珍しく足を止め、虚空を見つめていた。その表情には、いつもの不遜な余裕がなく、どこか遠い過去の残像を追っているような、不気味な様子。
「……柊さん?」
「……いや。なんでもない。ただ、少しだけ……」
そういえば、彼の婚約者は看護師だったような……。
42
鬼霧宗作
橘靖竜
るしゅ
現場へと向かうパトカーの中で、私たちは一度も言葉を交わさなかった。
無機質なマンション、現場となった一室には、生活感こそあるものの、看護師という職業を裏付けるかのように整然とした空気が漂っていた。リビングの中央に、若く美しい女性が眠るように横たわっている。
パトカーを降りてから一言も発さなかった柊さんは、現場に入るなり、鑑識の制止を無視して遺体に歩み寄った。
「……柊さん! 何をするんですか!」
私が咎めるのも聞かず、彼は遺体の足元に屈み込み、靴下を脱がせてくるぶしの周辺を凝視した。さらに、流れるような手つきでシャツの裾をわずかに捲り上げ、へその周辺を覗き込む。
「ちょっと! 不謹慎ですよ、いい加減にして——」
「……南さん。ここだ」
柊さんの声は、地を這うように低かった。彼が指し示した場所を覗き込むと、そこには注意深く見なければ見落としてしまうほど微かな、赤紫色の小さな点が残っていた。
「……注射の痕?」
背後から覗き込んだ鑑識官が声を上げた。
「本当だ、よく気付いたな。死後硬直や変色で見落とすところだった」
「……麻薬中毒者などが腕に注射を打つと、痕が目立ってバレやすい。だから隠しやすいへそやくるぶしの影に打つことがよくあるんだ」
柊さんは立ち上がり、冷めた瞳で遺体を見下ろした。その表情には、いつもの皮肉めいた笑みは一切ない。
「……じゃあ、この被害者は麻薬中毒者だったっていうことですか?」
私が尋ねると、柊さんは首を横に振った。その瞳の奥に、凍りつくような鋭い光が宿る。
「いいや、そうじゃない。彼女が看護師だと聞いたから、真っ先にここを確認したかっただけだ」
「……どういう意味ですか?」
私が問い詰めると、柊さんは一瞬だけ言葉を切り、窓の外を見つめた。その背中は、いつになく孤独で、そしてひどく脆そうに見えた。
「僕の婚約者と同じ状況で、死んでいるんだ。彼女も」
静まり返った部屋に、彼の言葉が重く沈殿した。柊さんがこれまで追い続けてきた「止まった時間」。その原因となった未解決事件と、目の前の遺体が、残酷な一本の線で繋がろうとしていた。
「……彼女も、自室で、この刺痕と一緒に見つかった」
柊さんの告白に、私は息を呑んだ。
私たちが対峙しようとしているのは、単なる殺人事件ではない。この男の人生を壊した本物の悪意の残響なのだと、私は直感した。