テラーノベル
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この家を、燃やす。
あの夜から、お義母さまのその一言が、湯呑みを洗うたびに耳の奥で鳴った。
冗談を言う人ではない。三年間、一度も聞いたことがない。
親族会議の日取りは、二十五日の日曜日に決まった。
蒼真は毎晩、書斎で誰かに電話をかけ、誰かに断られていた。
そして、二十日が来た。
*
「大奥様。本日、午前中だけ、お暇をいただけませんでしょうか」
和館の居間で、私は畳に手をついた。
お義母さまは、新聞から顔を上げなかった。
先月と、同じだった。
「行ってらっしゃい」
それだけだった。
今日が何日かとも、どこへ行くのかとも、聞かなかった。
立ち上がりかけたとき、お義母さまが言った。
「先月の線香が、まだ残っているでしょう」
「……はい」
「使い切ってしまいなさい。湿気るから」
「かしこまりました、大奥様」
凛の声で、そう答えた。
お義母さま。
あなたは、私がどこへ行くのか、もう聞きもしない。
私は、もう一度頭を下げた。
白檀の包みは、半地下の部屋の、鏡台の引き出しに入れてあった。この人は、それも知っているのかもしれなかった。
*
朝の遍照寺は、ひどく冷えていた。
夜のうちに降った雨が、杉の並木の根元に、まだ黒く溜まっていた。
十月の半ばを過ぎたばかりなのに、吐く息が、うっすらと白かった。
私は、いつもより一時間早く家を出ていた。
先月、管理人さんの話を聞いてから、ずっと考えていた。
毎月二十日。去年の冬から、一度も欠かさずに。
先月の二十日、私が着いたときには、花立てにはもう新しい花が挿してあった。
あの人は、私より先に来て、私より先に帰っていた。
今日は、先に着くつもりだった。
山門の前で、管理人さんが、濡れた落ち葉を竹箒で寄せていた。
私に気づくと、帽子のつばを持ち上げて、墓地の奥へ顎をしゃくった。
「今日は、もう来てますよ」
それだけ言って、また箒を動かしはじめた。
先月、私が何を気にしていたのか、この人には全部わかっていたのだろう。
私は、薄いスカーフ一枚きりの自分の首に、手袋の手を当てた。
それから、杉の並木へ歩き出した。
並木を抜けると、御影家之墓の前に、背の高い人がしゃがんでいた。
黒いコート。銀縁の眼鏡。
墓の前に、白いガーベラの束が置いてあった。
榊さんは、花立ての古い水を捨て、新しい水を注いでいた。
それから、小さな花鋏を出して、茎を一本ずつ切り揃えた。
斜めではなく、まっすぐに。
どれも、同じ長さに。
私は、杉の陰で、足を止めた。
四十九日の雪の日も、この人はこうして、ここにしゃがんでいた。
私は今と同じ杉の陰から、それを見ていた。
「……そこは、冷える」
榊さんが、振り向かずに言った。
「出てきてください。あなたの靴の音は、もう覚えている」
*
私は、墓の前に並んで立った。
「知っていたんですね。私が来るのを」
「先月、管理人さんに言われた。御影さんの墓に、お参りの女の人が来たから、あんたのことを話しておいた、と」
榊さんは、ガーベラを花立てに挿した。
「あなたは、聞かなかった。だから、俺も言わなかった」
#サレ妻
都築七美
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赤井 里会
1,613
ゆうき
73
「靴に、赤い土がついていました」
「知っている。あなたが、それを見ていたことも」
榊さんは、立ち上がった。
膝の土を払いもせずに、墓誌の前に立った。
「最初は、あなたのために来ていた」
低い声だった。
「去年の冬。あなたが死んだと聞いて、何もできなかった。……花を置くことしか、思いつかなかった」
風が、杉の枝を鳴らした。
「六月に、あなたが生きていると知った」
榊さんは、白いガーベラを見下ろした。
「それでも、来た。七月も、八月も、九月も」
「……どうして」
「ここに眠っているのは、あなたの代わりに死んだ人だ」
榊さんの声が、少しだけかすれた。
「その人の名前を、この石は、一文字も覚えていない。誰も、その人のために花を持ってこない。……だから、俺が来た」
私は、息ができなかった。
凛さん。
あなたのために、毎月ここへ来ていた人がいた。
一度も会ったことのないあなたのために。私が誰にもできなかったことを、この人は、黙ってやっていた。
「白いガーベラは」
榊さんが、少しだけ笑った。
「母の店の、看板だった。安くて、長く持つ。……父が、母の店で最初に買った花も、これだったそうだ」
離れのイーゼルの、小さな油絵。
ガラスの花瓶に挿した、白いガーベラ。
お義父さまは、あの絵を、誰を思って描いたのだろう。
「……凛さんは」
自分の声が、ひどく小さかった。
「骨の折れた傘を、律儀に差している人でした。雨の坂道で、肩をびしょびしょにして」
榊さんは、黙って聞いていた。
「よく笑う人でした。少し照れたみたいに。長野の言葉で、ずくを出して、って。……根気よく、っていう意味だそうです」
一度しか会っていない人のことを、私は、誰かに話したことがなかった。
トキさんにも、東雲先生にも。話せば、自分が奪ったものの形が、はっきりしてしまうから。
「あの人は、私の代わりにハンドルを握ってくれました。震えていた私を見て、代わりますって。……最後に、私の手を、押し戻したんです。行って、って」
榊さんは、長いあいだ、墓を見ていた。
「なら」
それから、花立てのガーベラに、指を一本だけ添えた。
「来月から、一本増やす。……ずくを出して、と書いたカードをつけて」
「カードは、だめです。誰かに見られます」
「なら、心の中で書く」
真面目な顔で、そう言った。
私は、笑いそうになって、喉の引きつれに咳きこんだ。
*
お義母さまの線香に、火を点けた。
白檀の煙が、ガーベラの白の上を、ゆっくりと流れていった。
私は、手袋のまま手を合わせた。
隣で、榊さんも手を合わせた。
凛さん。
この人が、あなたにも花を持ってきてくれていました。
私があなたの名前を返す日まで、どうか、もう少しだけ。
目を開けると、風がまた強くなっていた。
肩が、勝手に震えた。
スカーフの下の火傷の痕が、冷たい空気に引きつった。
ふいに、首のまわりが温かくなった。
榊さんが、自分のマフラーを外して、私の首に巻いていた。
灰色の、柔らかい毛のマフラーだった。スカーフの上から、二重に。
「いけません。榊さんが――」
「喉を焼いた人間は、首を冷やすと声が出なくなる」
前にも、聞いた言葉だった。
雨の神田で、傘を傾けてくれた日に。
榊さんは、マフラーの端を、私の顎の下で軽く結んだ。
長い指が、結び目を整えるあいだ、一度もスカーフに触れなかった。
「……返しに、行きます」
「返さなくていい」
それから、榊さんは目をそらした。
「いや。……返しに来てください。離れに」
私は、マフラーに顎を埋めた。
温かかった。
墓地の冷たい空気の中で、そこだけ、人の体温が残っていた。
「俺は、先に出る」
榊さんは、花鋏をコートのポケットにしまった。
「同じバスで坂を上れば、堂島の目に入る。あなたは、一本あとで」
「はい」
「それから」
数歩行きかけて、榊さんは振り返った。
「来月の二十日も、この時間に来る。……今度は、杉の陰に隠れなくていい」
黒いコートの背中が、杉の並木の向こうへ小さくなっていった。
*
帰る前に、墓を拭くことにした。
持ってきた布巾を花立ての水で濡らし、御影家之墓の竿石を、上から拭いた。
それから、墓の脇の、椿の植え込みに半分隠れた黒い墓誌に手を伸ばした。
先月、ここで手を合わせたとき、墓誌は、つやつやと光っていた。
指先に、ざらりとした感触があった。
私は、布巾を止めた。
墓誌に刻まれた、いくつもの名前。
お義父さまの名前。そのずっと前の、御影の人たちの名前。
その一番新しい行。
御影 二十九歳。
澪の字が、なかった。
何か硬いもので、何度も、何度も引っかいたように。
黒い石の表面が、そこだけ白く削れて、私の名前が、読めなくなっていた。
コメント
1件
今回のエピソード、本当に胸が熱くなりました。榊さんが毎月凛さんのために花を届けていたこと、そしてその花が白いガーベラだったこと——お義父さまの油絵と繋がるあたり、設定が丁寧でじんわり来ました。「心の中で書く」って返しも榊さんらしくて笑ってしまった。最後の墓誌の文字が削られている展開は鳥肌です……「澪」の字を消したのは誰なのか、もう次の話が気になって仕方ないです。