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#サレ妻
都築七美
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赤井 里会
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ゆうき
73
削られた墓誌の写真は、その場で榊さんに送った。
坂の途中で、返事が来た。
寺には俺から話す。あなたは、何もしなくていい。
それから、もう一行。
マフラーは、外さずに帰ってください。
私は、灰色のマフラーに顎を埋めたまま、バスの窓に額をつけた。
御影澪、の三文字のうち、澪の一文字だけ。
御影の名前は、傷ひとつなかった。
あの石を削った人は、御影の家を憎んでいるのではない。
私を、憎んでいる。死んだあとの私の、名前まで。
マフラーは、屋敷の門をくぐる前に外して、鞄の底にしまった。
*
翌日の午後、お義母さまに和館の居間へ呼ばれた。
「着付けを、手伝ってちょうだい」
衣桁に、藍鼠の色無地が掛けてあった。
畳の上には、銀鼠の名古屋帯と、帯締めと、藤色の帯揚げ。
五月に、麗奈が貸してほしいと言って、断られたものだった。
「多恵子さんのお宅に、夕食に呼ばれているの。日曜の会議の前に、お兄様にご挨拶しておかないと」
お義母さまは、姿見の前に立った。
右の肩を、少しかばうように。
「この秋は、右の肩が上がらないのよ。お太鼓が、うまく背負えないの」
「かしこまりました、大奥様」
長襦袢の衿を合わせ、色無地を羽織らせる。
腰紐を締め、おはしょりを整える。
手が、勝手に動いた。
三年間、この人の着物を、何十回となく着せてきた。
衿の抜き加減は、こぶし一つより少し狭く。この人は、首を長く見せるのを嫌う。
「……教わっていないことまで、よく知っているのね」
姿見の中で、お義母さまの目が、私を見ていた。
「旅館で、女将さんの着付けをしておりましたので」
凛の声で、答えた。
本当は、あなたに教わった。
衿が一ミリずれただけで、扇子で手の甲を打たれながら。
*
帯を巻き、お太鼓の山を作った。
お義母さまは、後ろ手で帯枕の紐を受け取り、前で結んだ。
それから、帯揚げを自分の手で取った。
「ここは、自分でやるわ」
藤色の絹が、帯枕を包み、前へ回された。
お義母さまの指が、左の脇で、何かを帯揚げの中へ押しこむように動いた。
右の肩が上がらないせいで、結び目が、少し右に寄った。
「大奥様。帯揚げが、少し」
「直してちょうだい」
私は、お義母さまの前に回り、膝をついた。
帯の上の、藤色のふくらみに、指を入れる。
左の脇に、指先が触れた。
硬かった。
絹の内側に、四角い、薄い物が入っていた。
指の腹に、角が当たった。
ぱしん、と手の甲が鳴った。
お義母さまの手だった。
扇子ではなく、素手で。
「そこは、触らなくていいの」
声は、低く、静かだった。
「……申し訳ございません」
私は、手を引いた。
手袋の上から叩かれた甲が、じんと熱かった。
お義母さまは、帯揚げの左の脇を、指で一度だけ押さえた。
中の物が、そこにあることを確かめるように。七月の茶室で、白い封筒の縁をなぞったときと、同じ指だった。
帯揚げは女の金庫よ、と、この人は五月に言った。
自分の胸元に、一瞬だけ指を添えて。
*
帯締めを結び終えても、お義母さまは姿見の前から動かなかった。
鏡の中の自分ではなく、その後ろに膝をついている私を、見ていた。
「あなた、髪を耳にかけないのね」
「……はい」
「お運びのときも、お掃除のときも。邪魔でしょうに」
お義母さまが、振り向いた。
「火傷の痕なら、首のスカーフで隠れているわ。耳の後ろまで、隠すことはないでしょう」
心臓が、一度、大きく跳ねた。
左の耳の後ろ。
髪の生え際のすぐ下に、小さなほくろが二つ。
東雲先生は、顔を作り直すとき、そこだけは触らなかった。
焼けていなかったからだ。
「お見苦しいところがございますので」
「見せなさい」
お義母さまの手が、伸びてきた。
避ける間もなかった。
白い指が、私の左のこめかみの髪を、根元からつかんだ。
引かれた。
首が傾き、耳が、外の光にさらされかけた。
「見せなさい、その耳の後ろ」
「大奥様――」
声が、かすれた。
お義母さま、と言いそうになる唇を、歯で噛んだ。
髪の根元が、ぴりぴりと痛んだ。
あと少し。あと、指一本ぶん、髪が持ち上がったら。
「おばあちゃま!」
襖が、勢いよく開いた。
陽翔だった。
黄色い帽子をかぶったまま、幼稚園バッグを肩から斜めに掛けて、立っていた。
「おばあちゃま、お腹すいた」
お義母さまの指が、止まった。
「あとね、歯、ぬけた」
陽翔は、握りしめていた小さな手を開いた。
手のひらの上に、白い粒が一つ、のっていた。
下の前歯だった。
九月から、ずっと、ぐらぐらしていた歯。
「……まあ」
お義母さまの手が、私の髪から離れた。
「幼稚園で、抜けたの?」
「うん。おべんとうのりんご、かじったら、とれた。血、ちょっとだけ出た」
お義母さまは、帯を締めた体を、ゆっくりとかがめた。
陽翔の口の中を、のぞきこんだ。
「本当ね。立派な隙間ができたわ」
私は、乱れた髪を、左の耳の上へ撫でつけた。
指が、震えて、うまく留まらなかった。
陽翔が、お義母さまの肩越しに、私を見た。
それから、小さな手を、自分の耳に持っていった。
ぽん、ぽん。
二回。
声は、出さなかった。
*
夕方、お義母さまは堂島の車で坂を下りていった。
厨房で、陽翔に小さなおにぎりを握った。
歯が抜けたところに当たらないよう、海苔を細く切って巻いた。
陽翔は、配膳台の端に座って、足をぶらぶらさせていた。
「おばあちゃま、りんさんのかみ、ひっぱってた」
おにぎりを両手で持ったまま、陽翔が言った。
「いたかった?」
「いいえ。少しも」
凛の声で、そう答えた。
陽翔は、私の顔をじっと見た。
それから、何も言わずに、おにぎりをかじった。
この子は、わかっていて飛びこんできた。
お腹がすいたのも、歯が抜けたのも、本当だ。でも、襖を開けたのは、廊下で私の声を聞いたからだ。
五歳の子に、私を助けさせた。
「抜けた歯は、源さんと一緒に、物置の屋根に投げましょうね。下の歯は、屋根の上へ。次の歯が、まっすぐ上に伸びるように」
「ママも、そうしたの?」
「……ええ。うんと、昔に」
陽翔は、うれしそうに、歯の抜けた隙間を見せて笑った。
厨房には、私たちのほかに、誰もいなかった。
それでも私は、勝手口の外の暗がりに、一度だけ目をやった。
*
日が落ちる前に、源さんを呼んだ。
物置の前で、源さんは陽翔を肩に乗せた。
陽翔は、小さな歯を握った手を、思いきり振り上げた。
「えいっ」
白い粒が、夕焼けの中を飛んで、物置のトタン屋根の上で、かつん、と鳴った。
「よう飛んだ。陽坊の歯は、まっすぐ生えるぞ」
源さんは、陽翔を下ろして、頭を手拭いの手で撫でた。
陽翔がムギを呼びに離れのほうへ駆けていくと、源さんは剪定鋏を腰に戻しながら、私のほうを見ずに言った。
「大奥様に、髪をつかまれとったそうだな。陽坊が、ゆうとった」
「……大したことでは」
「若奥様」
源さんの声が、低くなった。
「あの人は、確かめると決めたら、引かん人だ。三十年、見てきた。……耳は、隠しときなされ」
それだけ言って、源さんは温室のほうへ歩いていった。
金木犀の花が、作務衣の肩に、二つ三つ落ちていた。
*
夜、厨房の灯りを消してから、自分の手を見た。
右手の、人差し指と中指。
帯揚げの中の物に触れた、指の腹。
角が、当たった。
絹ごしに、薄くて、硬くて、平たい角。
指を、二本そろえてみた。
去年の十一月の夜。
厨房で、レシピを録るのに使っていた、銀色の小さな機械。
竪穴の声を録り終えて、震える手で、リフトの箱の中へ入れた。
あの夜、私の手のひらに収まっていた、あの重さ。あの厚み。
あの硬い角は、あの夜私がリフトに落とした録音機と、同じ大きさだった。
コメント
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陽翔が飛び込んできた場面、本当にぐっときました…。五歳の子がちゃんと“助ける”って選択をして、しかも声に出さずに合図するところ、尊すぎて泣きそうになりました。それと、帯揚げの中の録音機に気づくラスト、背筋が凍りました。あの「同じ大きさ」の一文で全部がつながる感じ、すごく好きです。🌙