テラーノベル
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やがて、清帝はゆっくりと息を吐いた。
「余は」
その声には、先ほどまでの感慨とは違うものが混じっていた。
「そなたを、余の記憶の中へ閉じ込めたのだな」
青鱗は答えなかった。
清帝は続けた。
「あの日、余は確かに感動した。黄河の銀鯉と聞き、姿を見て、美しいと思った。箸を入れた時、その身の味に心を奪われた」
青鱗の指が椀の縁を押した。
「その記憶は、余にとって粗末なものではなかった。忘れ難い一膳であった。だが」
清帝は少しだけ目を伏せた。
「それは、余が受け取った記憶だ。そなたの今ではない」
墨兎が黙っていた。炊源も、何も言わなかった。
清帝は、青鱗へ向き直る。
「余は、そなたを魚として覚えていた。黄河の銀鯉として。美しい料理として。余の舌に残った、忘れ難い味として」
そこで言葉を切り、はっきりと言い直した。
「だが今、余の前にいるのは、青鱗という者なのだな」
青鱗は、長く清帝を見ていた。
美味であった。
その言葉はまだ刺さっている。おそらく、しばらく抜けない。
けれど今、清帝はその言葉を置き直そうとしていた。自分の記憶のためではなく、青鱗の今を見ようとして。
「私は」
青鱗は言った。
「その言葉を、まだ受け取れない」
「そうであろう」
清帝は静かに頷いた。
「受け取れとは言わぬ。余が、間違えたと申すのか」
その問いには、まだわずかな硬さが残っていた。
帝として、簡単に過ちを認めることに慣れていない者の硬さだった。
青鱗は、すぐには答えなかった。
「間違えた、とまでは言わない」
青鱗は言った。
「だが、私を見ずに、記憶だけを見ていた」
清帝はその言葉を、しばらく胸の内で確かめていた。
「……そうだ」
ようやく、清帝は言った。
「記憶だけを、見ていた」
墨兎が小さく息を吐いた。
「陛下、今のお言葉は申し分ございません」
「そなたに採点されるとは思わなんだ」
「俺も、陛下のお言葉に口を挟む日が来るとは思いませんでした」
食堂の端で、誰かが小さく咳き込んだ。笑いかけて、堪えた音だった。
青鱗は墨兎を見た。
「お前は黙っていられないのか」
「今は黙ったら逆に重すぎるだろ」
「それは、そうかもしれない」
少しだけ、空気が動いた。
清帝は、青鱗の椀を見た。
「それは」
「蒲菜と豆腐の澄まし羹だ」
「ほう。黄河の水辺では、蒲菜もよく採れたな」
「……ああ」
青鱗は椀へ視線を落とした。
「濁った水の端に、柔らかい草が揺れていた」
清帝は、少しだけ黙った。
それから静かに言った。
「余も、それをもらおう」
青鱗はすぐには答えなかった。
断ることもできた。席を立つこともできた。
けれど、炊源の手で作られた澄まし羹の湯気が、まだ手元にあった。
「好きにすればいい」
ようやく、青鱗は短く言った。
清帝は頷いた。
「では、そうしよう」
墨兎は何か言いかけて、やめた。
代わりに、青鱗の隣の席を少し空けた。清帝が近づきすぎれば、間に入れる位置だった。
青鱗はそれを横目で見た。
「過保護だな」
「兎は警戒心が強い」
「そういうものか」
「そういうものだ」
炊源は静かに厨房へ戻った。
その背には、まだ強張りが残っていた。
帝の言葉を遮った。その事実が、これからどう響くかは分からない。だが、炊源に迷いはなかった。
青鱗は椀の中を見下ろした。蒲菜の淡い青と、豆腐の白が、湯の中で静かに揺れている。
清帝は少し離れた席へ腰を下ろした。
近くはない。けれど、遠すぎもしない。
青鱗は匙を取り、澄まし羹をもう一口飲んだ。
美味という言葉は、まだ痛い。
けれど、清帝は今、同じ湯気の向こうに座ろうとしている。あの日の記憶ではなく、今ここにある椀を見ようとしている。
それなら、次に交わす言葉は、少しだけ違うものになるかもしれない。
青鱗は、まだ清帝を見なかった。
ただ、手の中の椀は温かかった。
コメント
1件
Hp2さん、第10話読みました……「美味であった」って言葉がまだ刺さったままなのに、清帝が「記憶だけを見ていた」って認めたところ、すごくぐっときました。青鱗が「受け取れない」って言うのも、わかるよって思って。それでも隣に座ろうとする距離感、遠すぎず近すぎずの場所が、二人の今の関係を表してて泣けました。墨兎のさりげないフォローも好きです。