テラーノベル
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清帝は、天灯食堂を離れてからも、すぐには足を止められなかった。
誰も道を開けない回廊を、ゆっくり歩く。
生前であれば、帝の歩みに合わせて人は退いた。言葉を発すれば、誰かが頭を下げた。美味であると言えば、それは褒賞になった。
だが、ここでは違った。
墨兎は清帝を止めた。炊源は清帝の前へ出た。青鱗は、清帝の言葉を受け取らぬと言った。
そのどれもが、不敬として扱われなかった。
生前なら、皇帝の言葉を遮るなど許されなかっただろう。
だが、ここはもう、誰もが一度生を終えた後に暮らす場所だった。
清帝は食堂を離れ、回廊の先にある水庭へ向かった。
死者たちの暮らすこの地には、生前の故郷を思わせる風景がいくつもある。その水庭も、その一つだった。
小さな池には、わずかに土の気配を含んだ水が引き込まれている。
水面は穏やかで、底の石まで見えるほど澄んでいた。
それでも、黄河とはあまりに違う水だった。
水面は静かだった。光は柔らかく、水底の石まで見える。
清帝は水際に立ち、そこに映る自分の顔を見た。
食堂での青鱗の声が、まだ耳に残っている。
私は今、皿の上にいるのか。
あの問いを受けた時、清帝はすぐに答えられなかった。
あの日の銀鯉は、今も清帝の内に残っている。目に、舌に、そして、受け取った命の重さとして。
けれど、その記憶へ手を伸ばすたび、青鱗の顔が遠ざかる。
白磁の皿の上にあった銀鯉と、食堂で椀を持っていた青鱗。その二つを、清帝はまだ同じ場所に置けずにいた。
水面が小さく揺れた。
映っていた清帝の顔が崩れ、その横に、銀青の影が差した。
清帝は振り返る前に、息を止めた。
「あなたか」
青鱗の声だった。
清帝は静かに頷いた。
「余だ」
青鱗は、すぐには何も言わなかった。
食堂であれだけ清帝を見据えていた目が、今は水面を映している。怒りでも、和解でもない。ただ、追ってきた理由を自分でもまだ計っているような顔だった。
しばらくして、青鱗は短く言った。
「ここには、魚料理はない」
清帝は一瞬、言葉を止めた。
青鱗がこちらを見た。その目に、ほんのわずかだが、硬さと違うものがあった。
冗談か。
そう気づくまでに、少し遅れた。
「……それが目当てなら、食堂へ戻っている」
「だろうな」
青鱗は淡々と言った。
「言ってみただけだ」
清帝は、短く息を吐いた。笑いには届かない。だが、胸の奥にあった重さが、少しだけ動いた。
「そなたにも、そのようなことを言う余地があるのだな」
「私も、冗談くらい言う」
「そなたが魚であった頃もか」
「今は青鱗だ」
清帝は、わずかに目を伏せた。
「そうであったな」
青鱗は清帝の隣ではなく、少し離れた水際に立った。近くはない。だが、去るほど遠くもない。
銀青の髪が、天界の柔らかな光を受けて淡く揺れている。青鱗は水面を見た。
「この水は、そなたにとって落ち着くのか」
清帝が問うと、青鱗はすぐに答えた。
「黄河には、似ていない」
「似ていないか」
「ああ。ここの水は静かすぎる」
清帝は水庭へ目を向けた。
「黄河は、静かではなかったか」
「場所による」
青鱗の声は淡々としていた。
「だが、私が覚えている黄河は、もっと重かった」
「重い」
「水は澄まない。前が見えないこともある。流れは太く、底は柔らかく、尾を動かすたびに泥が舞う。水音も、ここのようには澄んでいない。腹の下から響いてくる」
「腹の下から」
「魚には、そう聞こえる」
青鱗は静かに言った。
「流れが強い日は、進むだけで体が削られる。上へ向かう時は、尾を止めればすぐに押し戻される。水が増えれば、昨日の岸が水の底へ沈む。水が減れば、通れた場所が泥になる」
「渇くこともあったのか」
「ある」
青鱗の目は水面を見たままだった。
「浅くなれば、身を伏せて待つしかない。水が戻るまで、泥の中で鰓を動かす。焦って動けば鳥に見つかる。深い場所へ行こうとしても、そこへ至る流れが消えていることもある」
清帝は何も言わなかった。
清帝の記憶の中で、銀鯉はすでに皿の上にいた。淡い照りをまとった身。反った尾。箸を入れた時の、柔らかくほどける感触。
だが、その前にあったものを知らなかった。
濁った水。急な流れ。渇いた泥。身を伏せて待つ時間。
「餌は、綺麗な水面にばかり浮かない」
青鱗は続けた。
「泥の中を探る。流れの匂いを読む。柔らかいもの、硬いもの、食べられるもの、食べてはいけないものを分ける。口に泥が入ることもある。鰓に重い水が通ることもある」
青鱗は、自分の手を見た。
今は指がある。だが、その記憶の中で泥を探っていたのは、口だった。
「銀色だったからといって、澄んだ水だけを泳いでいたと思われるのは困る」
清帝は目を伏せた。
青鱗は言った。
「私は、泥の中で餌を探していた」
沈黙が落ちた。
水庭の水は、静かに光っている。その静けさが、かえって黄河の重さを想像させた。
コメント
1件
第11話、読み終えました……。水庭の静けさが、逆に清帝と青鱗の間に流れる時間の重さを際立たせてて、すごく好きなシーンでした。 特に青鱗が「泥の中で餌を探していた」って話したところ、胸に来ました。清帝は皿の上の銀鯉しか知らなくて、青鱗はその前に濁った黄河を泳いでいたんだなって。お互いの知らない部分を、少しずつ見せ合ってる感じが切なくて、でも優しかったです。 あと、青鱗の冗談、ちょっと笑いました。あの距離感、いいですよね。次も読ませてください🌙