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昼下がり。
セリーヌの部屋に、
柔らかな風が流れ込んでいた。
イチはソファの端に座り、
静かに窓の外を見つめていた。
そんな彼女に、
セリーヌが微笑みながら声をかける。
「ねぇ、イチ。
ずっと部屋にこもっていたら、気分も沈んでしまうわ。
少し屋敷の中を歩いてみない?」
イチはゆっくりと振り向き、
迷うように瞬きをした。
けれど、
セリーヌの柔らかな声に
不思議と拒む気にはなれなかった。
そっと立ち上がる。
「そう、それでいいのよ。
……今日は風が気持ちいいわ」
セリーヌの言葉に押されるように、
イチは静かに部屋を出た。
――――
廊下には陽の光が差し込み、
大理石の床に反射してきらめいていた。
イチが歩くたび、
軽い靴音が静かに響く。
角を曲がったところで、
掃除をしていたメイドが顔を上げた。
「……あら、イチお嬢様!」
イチは思わず足を止めた。
“お嬢様”――
そう呼ばれたのは、初めてだった。
胸の奥がくすぐったくて、
どんな顔をすればいいのかわからない。
照れたように視線を逸らすと、
メイドがくすっと笑う。
「まぁまぁ、かわいらしい反応をされるのね」
その笑顔に、
イチの頬がほんのり熱くなる。
床に落ちていた羽ぼうきを拾い、
イチはそっとメイドの隣にしゃがみ込んだ。
「え……? お手伝いを?」
イチは小さくうなずく。
メイドは少し驚いたように目を瞬かせ、
やがて優しく笑った。
「では、お願いしますね」
ふたりで並んで
廊下を掃く。
イチの動作はぎこちないが、
その表情にはわずかな柔らかさが宿っていた。
――――
掃除を終えて中庭に出ると、
庭師が剪定ばさみを手に木々を整えていた。
「お嬢様……こちらへ?」
イチは頷き、
しゃがみこんで花壇の枯れ葉を集め始めた。
庭師は驚いたように目を見張るが、
何も言わずそっと微笑む。
陽の光を浴びながら、
イチの髪飾りが小さく光を反射する。
風にそよぐたび、
その光がまるで生きているように揺れた。
どこかで小鳥のさえずりが響く。
遠くでは、噴水の水音がやさしく流れていた。
イチは、
ゆっくりと手を止めて空を見上げた。
青い空が広がっている。
それを見上げた瞬間、
胸の奥で何かがあたたかく広がった。
――“きれい”。
言葉にならないその感情が、
小さな微笑みとして
イチの唇にほんの一瞬だけ宿った。
誰も気づかないほど短い、
けれど確かにそこにあった笑み。
その日、
屋敷の空気が
ほんの少しだけ優しくなった。