五年前のことは、特にトラウマになっているというわけではない。金子にも言った通り、自分の中ではすでに消化できている。ただ、嫌な記憶であることには違いない。
今から五年前、当時大学生だった私は「楡の木」で、週末の夕方から数時間のアルバイトをしていた。どちらかというと料理がメインのお店だったから、客層も女性が多く、働きやすく感じていた。
アルバイトを始めたきっかけは友達に誘われてのことだったが、その友達は早々にやめてしまう。その後、新しく入ってきたのが金子だ。彼は別の大学に通う学生で、年は私より一才上だった。
悪い人ではないのだろうが、私の目に彼は軽薄な人種に見えた。そのため私は彼と距離を置いた。彼と言葉を交わすのは仕事で必要な時だけで、私たち二人の間に雑談はなかった。
しかし心の中では、彼をすごい人だと思っていた。いつも気持ちいいくらいてきぱきと働いていたし、料理が趣味らしく、田上に任されていたメニューもいくつかあった。端正な顔立ちで接客態度も柔らかだったから、彼目当てにやってくる女性客も多く、そういう意味で彼は売り上げにも貢献していたと思う。
そんな金子の働きぶりに感化された私は、せめて接客くらいは彼を見習おうと思った。皮肉なことに、その頑張りが後々よくない事態を招くことになる。
アルバイトを始めて、三か月ほどが過ぎた。金子と同じとはいかないまでも、仕事に慣れ、接客もだいぶ板についてきていた。
そんなある日、毎週のようにある男性客が来ていることに気がついた。田上との会話の雰囲気から、常連なのだろうと察した。はっきり聞いたわけではなかったが、年は三十代初めくらいに見えた。
彼は残業してきたと思えるような時間帯にやって来て、空いていれば必ずカウンター席に座った。そして、にこやかな笑顔で私に声をかけてくるのだった。お酒の飲み方が綺麗で、穏やかな態度を崩さない人だった。
「やぁ、佳奈ちゃん。今日も頑張ってるね」
「鈴木さん、こんばんは。いつもありがとうございます」
「いつ見ても、ほんと、佳奈ちゃんは可愛いね」
「またまた、そんなお世辞。何も出ませんよ」
「彼氏はいるの?」
「さぁ、どうでしょうか?」
鈴木との会話はいつもそんな感じだった。ただ軽口を言い合うだけのものだった。そして私の笑顔はただの仕事用のもので、そこに特別な意味はまったくなかった。
しかし、それからさらにふた月ほどがたった頃、そう思っていたのは私だけだったと気がつく。
その時、田上は奥のテーブル席で注文を取っていて、金子はちょうど休憩に入っていた。カウンター席には鈴木しかおらず、私は彼に頼まれて、空いた皿を片づけようとしていた。
鈴木がいつものようににこやかな顔で、私の名前を呼ぶ。
「佳奈ちゃん」
私もいつもと同じように彼に笑顔を向けた。警戒心はなかった。
「はい、何でしょうか?」
すると彼は言ったのだ。私の手にさわりと触れながら。
「ねぇ、連絡先教えてよ」
私の背中に悪寒が走った。
気持ち悪い――。
しかし今は接客中だと気を取り直す。私は嫌悪感を隠して、やんわりと鈴木の手から逃れた。
「すみません。そういうのは断るようにって、マスターから言われているので、教えられないんです」
嘘だった。田上からそんなことを言われたことはなかったが、他に適当な断り方が思いつかなかった。
「田上さんには内緒にしておけば大丈夫だよ。だから、ね?」
彼は言いながら、今度は私の腕に手を伸ばす。
今までにこやかだと思っていた笑顔が、にやにやとしたいやらしいものに見えてきて、ぞっとした。
田上が私と鈴木の間に割って入ってきたのは、その時だった。
「鈴木さん、うちの店でお触りは禁止ですよ~。佳奈ちゃんはもう上がる時間だよ。後は俺と金子でやっておくからね」
早く行けと言うように、田上は私に向かって片目をつぶってみせた。
助かったとほっとする。
「それじゃあ、お先に失礼します」
私は引きつった笑顔で二人に頭を下げてから、カウンター奥にある休憩室に向かった。ドアを開けると、金子がペットボトルに口をつけて水を飲んでいるところだった。
「すみません、休憩中失礼します。少し早いですけど、私、今日はこれで上がりますので」
私はそそくさと帰り支度を始めた。
金子は慌ただしい私の様子をしばらく黙って眺めていたが、おもむろに口を開いた。
「早瀬さんさ、もしかして今、鈴木さんにからまれてた?」
「え?」
「マスターの声が、ここまで聞こえた」
金子は腕を組んで私をじっと見た。
「もしかして、注意事項とか聞いてなかった?」
「注意事項、ですか?」
そんなものがあったのかと困惑した。
金子が大きなため息をついた。
「マスター、言ってなかったんだな」
「何をですか?」
「ん。あの人は女癖が悪いから、気を付けなよって話」
私は眉間にしわを寄せた。
「そうだったんですね。知らなかった……。教えてくれてありがとうございました」
「いや、全然。えっと、また来週ね」
「はい。また来週。じゃあ、お先に失礼します」
頭を下げて休憩室から出ようとした時、金子の声が追ってきた。
「気をつけて真っすぐ帰りなよ」
それが苦手に思っていた金子と交わした、初めての長い会話だった。そしてこの時から、見た目と違っていい人なのだなと、彼を見る目が変わった。
その翌週、アルバイトのために店に入った途端、田上から頭を下げられて驚いた。
鈴木の件を伝えていなかったことを、金子に怒られたのだと言う。
確かにひと言教えてもらっていればと思わないではなかったが、知っていたとしても、果たして上手にかわせかどうか、自信はあまりない。
「とにかく、もしもまたそういうことになったら、すぐにマスターか俺を呼ぶってことで。マスターもそれでいいよね」
金子の言葉に田上は大きく頷く。
「もちろんだよ」
「ありがとうございます。よろしくお願いします」
私は深く頭を下げた。
この時のことをきっかけに、私は次第に金子に打ち解けていった。そのうちには、彼を「金子さん」ではなく「金子君」と呼ぶようになった。それと同じ頃には、金子もまた私のことを、少しだけ照れ臭そうな顔をしながら「佳奈ちゃん」と呼ぶようになっていた。そしてある時、金子が私のことを「佳奈ちゃん」と呼ぶ度に、くすぐったいような甘酸っぱいような想いが心の中に広がるようになっていることに気がついた。
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