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あの日、抗う間もなく奪われた熱い口づけの残像が、今も焼印のように唇にこびりついている。
ジェルの溺愛は、日に日にその粘度と密度を増していた。
私を物理的な壁で囲うだけでは飽き足らず
精神の隙間さえも一畳の余裕なく塗りつぶそうとする、それは暴力的なまでの執着。
けれど、彼が私の羽をもぎ、黄金の鳥籠へ繋ぎ止めれば繋ぎ止めるほど
記憶の深淵から湧き上がる外の世界への渇望は、抑えきれない劫火となって私の胸を焦がし続けていた。
その日の夜
静まり返っていた王宮の警備がにわかに騒がしくなった。
「侵入者だ!」「北門を固めろ!」
遠くで響く怒号と、石畳を叩く無数の軍靴の音。ジェルは私の部屋の鍵を二重に閉め
「決してここを出てはいけないよ」と、凍りつくような甘い声で言い残して鎮圧に向かった。
その直後だった。
固く閉ざされていたはずのテラスの窓が、外側から不自然な金属音を立ててこじ開けられた。
「……っ、誰!?」
悲鳴を上げようとした私の口を、泥と乾いた血に汚れた、無骨で冷たい手が力任せに塞ぐ。
カーテンの隙間から滑り込んできたのは
ボロボロの外套を纏い、獣のような眼光を放つ見知らぬ男だった。
彼は最初、私を単なる「王女」という標的として凝視していた。
しかし、カーテンから漏れた青白い月光が私の顔をはっきりと照らし出した瞬間
彼の瞳は信じられない化け物でも見たかのように、激しく見開かれた。
「嘘だ……。お前、生きて……いや、そんなはずは。お前は、あの時、俺たちの目の前で──」
男の指先が、驚愕と戦慄にガタガタと震え始める。
彼は「王女」という高貴な身分に対する敬意など、塵ほども持ち合わせていなかった。
そこにあるのは、旧知の仲に対する情愛か
あるいは死者が墓場から這い出してきたのを目の当たりにした者だけが浮かべる、剥き出しの恐怖だった。
「待って、あなたは私を知っているの……?答えて、私は誰なの……っ!」
塞がれた手が緩んだ隙に、私は男の汚れきった袖を掴み、縋り付くように問いかけた。
その時だった
──シュッ、という、空気を切り裂く鋭利な風切り音。
直後、目の前の男の胸から太い矢の先端が突き出した。
男は言葉にならない湿った声を漏らし、私を凝視したまま、音を立てて床へ崩れ落ちる。
その絶望に染まった視線の先。
テラスの向こう、闇に沈む手すりの上に、漆黒の剛弓を構えたジェルが仁王立ちしていた。
「シェリー!その男から離れるんだ!」
ジェルは風のような速さでテラスを飛び越え、私の腰を抱き寄せて自らの背後へと隠した。
彼は床に倒れ伏した男に
氷の刃のような冷徹な視線を送り、止めを刺すべく腰の剣を抜き放とうとする。
「待って、ジェル!殺さないで! その人は、私に何かを伝えようとして……」
「惑わされてはいけない。こいつは王宮を血で染めようとした反乱軍の残党、君の命を狙う卑劣な鼠だ。言葉を交わす価値さえない」
ジェルは震える私の肩を壊れ物を扱うように強く抱き寄せ、耳元でいつもの甘く、慈愛に満ちた声を囁いた。
「怖かっただろう。もう大丈夫だ。僕が仕留めた。君の指一本、髪一筋さえ、こんな汚らわしい連中に触れさせはしないからね」
ジェルの腕の中。彼は私を「守った」と言った。
けれど、私の心臓は、生まれて初めて経験する激しい拒絶の鐘を打ち鳴らしていた。
あの男の瞳。
私を見て「驚愕」したのは、私が高貴な王女だったからではない。
私が「生きているはずのない、死んだはずの人間」だったから?
(あの人は、私を『シェリー王女』として見ていなかった。ジェルの語る物語には存在しない、別の私を知っていたとしたら…)
王女という偽りの冠。
完璧な婚約者、美しく整えられた記憶。
そのすべてが、激しい奔流に洗われる砂の城のように、足元から音を立てて崩れ去っていく。
私は、単に不運な襲撃で記憶を失った王女などではない。
もっと別の、ジェルの野望や歪んだ愛のために「死を偽装され、名前を書き換えられた」──
彼が創造した人形に過ぎないのではないか。
思考が巡って纏まらない。
私を抱きしめるジェルの手からは、微かに鉄のような血の匂いが漂っていた。
彼は守っているふりをして、その実
私の真実を射抜くための矢をいつでも放つ準備ができているのかもしれない
彼の底なしの溺愛という名の裏側で
私は初めて、自分という存在そのものが、世界を欺くために作られた
「巨大な偽造品」である可能性に、言葉にできないほど激しい悪寒を感じていた。