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第1話「誰にも見えない」
教室の空気は、今日も少しだけ冷たい。
エアコンの温度じゃない。人の気配が私を避けて通る、それだけで、空気の流れまで変わる気がするのだ。
春川ひなたは、今日も自分の席に座っていた。
誰にも話しかけられず、話しかけもせず、気配を殺して窓の外を眺めている。
2月の空は低く、重く、色をなくしていた。
誰かの笑い声が響く。けれどその笑いは、ひなたには向けられていない。
昼休み、机の中にはぐちゃぐちゃになったノートが押し込まれていた。
昨日と同じように、潰されて、濡らされたやつ。
誰がやったかなんてわかってる。だけど、騒いだって無駄だ。
先生は「気のせいだろ」と笑って、クラスメイトは目を逸らす。
もう驚きもしない。
こんなこと、毎日だ。
それでも学校には来る。来なければ、家にいるしかないから。
家は、音がしない場所だ。
父も母も、自分に関心がない。
顔を合わせてもスマホかテレビを見ていて、名前を呼ばれるのは怒られるときだけ。
「何度言わせるの」「いい加減にしなさい」「なんであんたはそうなの」
それが“会話”だった。
ひなたは、自分という存在がこの世界に“いること”自体が間違いのように感じていた。
帰り道、校門を出ると、制服の袖を引かれた。
「ちょっと、アンタ」
振り返ると、そこにいたのは、隣のクラスの真壁つかさだった。
黒い髪を無造作に束ね、睨むような目つきのまま、ひなたを見ていた。
「……家、帰るの?」
声は低く、まっすぐで、少しだけ震えていた。
「いい場所、あるんだけどさ。ついてきてくんない?」
ひなたは、何も言えなかった。
だけど、そのとき初めて、自分に“呼びかけられた”気がして、足が動いた。
この日から、ふたりの逃亡劇は始まった。