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臣桜
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二〇二三年 七月下旬。
十九歳の女子大生瀧沢春佳は、父、庸一を喪って悲嘆に暮れていた。
通夜が行われるなか、ロングヘアを纏めた春佳は喪服に身を包み、視線を落として僧侶の読経を聞いていた。
父はときどき兄と熾烈な親子喧嘩をしていたものの、基本的に繊細で優しい人だった。
父方の祖父が食品を扱う中企業の経営者をしていた関係もあり、瀧沢家は一般家庭より裕福な生活を送る事ができていた。
庸一は春佳にとって良い父で、大学に通わせてくれた恩のある親だ。
夫を深く愛していた母、涼子は悲しみのあまり放心し、父の死後、春佳が母の面倒をみていた。
喪主を務めたのは、二十六歳で有名ゲーム会社に勤めているエンジニアの兄、冬夜(とうや)だ。
葬式は故人の遺志を汲み、こぢんまりとしたものとなった。
春佳は父が大好きだったし、急にこんな事になり驚き悲しんでいる。
だが人は自分より取り乱している人がいると、冷静になるものだ。
夫に死なれて我を失った母を想うと胸が締め付けられ、自分がしっかりしなければという気持ちになる。だからどれだけ悲しくても取り乱さず、父を見送ろうと思った。
そう決意したのは、母が精神科に通院して薬を服用しているのもあるし、父の死に方にも理由があった。
父はマンションの共用部分である、廊下の窓から飛び降りたらしい。
どういう経緯で自殺したのか、理由を書いた遺書はなく、代わりに弁護士に宛てた手紙なら見つかった。
【私はローンを払い終わった分譲マンションの持ち主で、飛び降りたのは共用部分になります。また下は公道となっているため、家族が管理会社から責任追及される事はないと思っています。万が一損害賠償を求められた場合、十分にお支払いできる貯金はありますが、先生には私の死後、家族を守っていただけたらと思います。また遺産については以前に作成した遺言状の通りとしたいと思っています。】
父はあとの事を考えて綿密に計画して飛び降りたらしく、そこまで死にたかったのかと思うと悲しくて堪らないし、せめて理由を教えてほしかった。
父が亡くなったのは七月半ばの連休二日目の、夜二十二時ぐらいだ。
春佳はその時、親友と一緒に泊まりでテーマパークに行っていて、一人暮らししている冬夜も、連休を利用して京都に行っていた。
春佳が連休三日目の午前中に帰宅した時には、父の遺体はすでに回収され、家を訪れた警察に事情聴取された。
午後になって箱根へ行っていた母も帰宅し、父に不審な点がなかったか聞かれた。
部屋に争った形跡はなく、廊下の窓付近からも父以外の指紋は検出されなかった。
祖父の会社の経営が傾いている話は聞かなかったし、仕事で悩みがある様子もなく、会社の人に話を聞いても理由は判明しなかった。
私生活では一人で行動するタイプで、友人と付き合っている姿を見た事はない。
かといってネットで交流する事もなく、休日になるとフラリと散歩に出て、あてどなく歩いているようだ。
遺影の中の父を見ていると、とめどなく思い出が溢れてくる。
しっかりしないと、と思ってもどうしても気分が沈む。
春佳は手首に巻いた数珠を指で辿り、何度目になるか分からない溜め息をついた。
一家を支える父親がいなくなっても時は過ぎ、食欲がないと思っても腹は減る。
(私たちは、お父さんの分も生きなきゃいけない)
春佳たちは文京区小石川にある、3LDKのマンションに住んでいる。
父の死を確認したあとに管理会社とやり取りをしたが、父が生前、弁護士に『何かあった時こうしてほしい』と伝えていた事もあり、大事には至らなかった。
当時は警察や救急車が駆けつけて騒ぎになったものの、瀧沢庸一が自殺したという事は知られず、その騒ぎはやがて日常に紛れて忘れられていった。
だが遺された家族は違う。
かつては家族四人、少し前まで三人で暮らしていた家が今はとても広く感じられた。
「春佳、夕飯できた。食えるか?」
キッチンから冬夜の声がし、春佳は「うん」と兄に返事をする。
答えたあと彼女は寝室に向かい、ベッドで寝ている母に声を掛けた。
「お母さん、ご飯は?」
「……いらない」
力なく眠っている母は、か細い声で答えた。
「食べられるようになったら教えて。消化にいい物、作ってあげるから」
そう誘ったが、母は何も言わなかった。
リビングダイニングに向かうと、白いテーブルの上に二人分の食事が用意されてある。
椅子を引いて席につくと、器にはジェノベーゼソースが絡んだペンネが盛られている。
「美味しそう」
「茹でて買ってきたパスタソースにぶち込んだだけ」
春佳が褒めると、冬夜は素っ気なく言う。
チラリと兄を見ると、こんな時だというのに「今日も格好いいな」と思ってしまう。
兄は整った顔立ちをしていて、友人から「イケメン兄が羨ましい」と言われていた。
子供の頃は女の子と間違えられる事もあったそうで、女の子の服を着せられていた事もあったみたいだ。
それに引き換え、春佳は兄のようなくっきりとした目鼻立ちをしておらず、優しいと言えば聞こえがいいが、あまり主張しない顔立ちをしている。
長所といえば綺麗に伸ばしたロングヘアぐらいで、あとは何もかも凡庸だ。
体型は中肉中背で、特に胸も大きくない。
性格も控えめで、周囲から「ハッキリしない面白みのない奴」と思われている。
だから昔から周囲の人に「似てない兄妹だね」と言われるのがコンプレックスだった。
春佳は頭が良くて格好いい兄を自慢に思う一方で、比較される事を苦痛に感じていた。
「いただきます」
二人は胸の前で手を合わせてからフォークを手に取り、静かに食事を始める。
「お兄ちゃんとご飯食べるの、久しぶりだね」
「そうだな。一人暮らしを始めてから結構経つから」
冬夜は高校卒業と同時に一人暮らしを始め、都内を転々と引っ越したあと、今は中央区|佃(つくだ)のマンションに住んでいる。
祖父に資産運用の方法を教わったからか、少し余裕のある生活を満喫しているようだ。
兄との仲は、悪くはないが仲良しとも言い切れない。
彼が早々に一人暮らしを始めた時、春佳は十一歳だった。
年齢が七つ離れている事もあり、喧嘩はしないが、成長した今は兄というより他人のように感じる時もある。
加えて春佳は自分の気持ちを共有するのが苦手で、一人で抱え込んでしまう性格だ。
なので異性である事も相まって、何でも相談できる兄妹とは言えなかった。
だからなのか、久しぶりに兄と食事をしている今も、多少の気まずさがある。
「必要な事は俺がやるから、母さんを頼むな」
「うん」
食事を終えてコーヒーを飲んでいる時、兄とそう話した。
葬儀が終わったあと、兄と「なぜ父は自殺したか」という話はしなかった。
遺書もないのに決めつけられないし、死者の想いは本人にしか分からない。
亡くなった人の話をして父が蘇る訳ではないし、納得できる死に方だったならともかく、前触れのない自死だったので話題にすると気まずくなってしまう。
今は無理矢理でも食事をし、日常生活を送る事によって、思考停止してしまいそうになるのを必至に留めている。
父を見送る時に沢山泣いたが、いまだに家族が一人いなくなった実感がない。
なのに気がつけば時間だけが無情に過ぎている。
まるで時間がゴムのように伸び、ぼんやりとしている間に、動く歩道に乗って翌日になっている感覚だ。
「大学、行けるか?」
「……うん。お父さんが大学に入れてくれたんだし、ちゃんと卒業しないと」
「学費は心配ないから、しっかり勉強しとけ」
「うん」
「つらいけど、頑張っていこうな。どんだけしんどくても、前を向いて歩いていかないとならないんだ」
「そうだね」
空虚な思いを抱えているのも、悲しいのも、これからどうなるのか不安なのも、家族三人とも同じなのだ。
(自分だけつらいって思ったら駄目だ)
春佳は己に言い聞かせ、立ちあがると食器を流しに持っていった。
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コメント
1件
第3話、読み終えました。春佳の「しっかりしなきゃ」という気持ちと、それでも溢れてしまう悲しみのバランスがとてもリアルでした。特に、父が遺書を残さず弁護士宛ての手紙だけを残したところ——あれ、何か理由があったんじゃないかと気になりますね。食事シーンの静かな空気感も印象的で、兄との距離感が画面越しに伝わってきました。優しくて繊細な父の人物像が浮かんでいたからこそ、その自死の理由が分からない切なさが胸に刺さります。続きが気になります。