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その夜を境に、SHOOTは少しずつ笑うようになっていった。
まだ音楽には触れられなかった。
ラジオの音もテレビの音も、どこか遠くの世界のもののように感じられて、ヘッドフォンの奥の沈黙が心地よかった。
けれど、海辺の風だけは、彼の頬を優しく撫でた。
乾いた潮の香り、波のリズム、鳥の鳴き声。
それらは、過剰な言葉も、騒がしい視線も伴わない、“ただの世界の音”だった。
朝、窓を開けると、レースのカーテンがやわらかく揺れた。
その隙間から差し込む光は、少しずつ色を変えていた。
冬の名残をかすかに残した冷たい風が、次第にやわらぎ、どこか甘い香りを含んでいく。
木々の芽がふくらみ、小さな花が道ばたに顔を出す。
SHOOTは、散歩の途中で立ち止まり、小さな黄色い花をじっと見つめた。
踏まれそうになっても、懸命に咲いているその姿に、かつての自分を重ねたのかもしれない。
夜になると、遠くの漁港の灯りが静かに揺れていた。
海風が髪を撫で、ジャケットの裾をふわりと持ち上げる。
静寂の中に、彼は自分の鼓動を感じていた。
「生きてるんだな……」と、そんな実感が、少しずつ心に満ちていく。
笑うことが、少しずつ自然になった。
朝、鏡に映る自分の顔が、前より少しやわらかくなっている気がした。
そして春が来た頃の、ある夕方。
空は淡く染まり、橙と桃色のグラデーションが、静かに地平線をなぞっていた。
SHOOTは、海辺のベンチに腰を下ろし、静かに口を開いた。
「……もう一度、東京に戻ろうと思う」
風が、そっと彼の言葉をさらっていく。
まるで、その想いを世界がそっと受け取ってくれるように。
隣に座っていたMORRIEは、それを聞いてもすぐには何も言わなかった。
彼もまた、目を細めて、色を変えゆく空を見ていた。
しばらくの沈黙のあと、ゆっくりと頷く。
「じゃあ、帰ろう。今度は、焦らず、ゆっくりな」
その言葉は、命令でも慰めでもなかった。
ただ、SHOOTという人間を知り尽くした兄だけがかけられる、深い理解のあるひと言だった。
SHOOTは、うっすらと笑った。
その笑顔は、東京で失った“自分”のかけらを、少しだけ取り戻した証だった。
春の風が、彼の頬をそっと撫でていく。
暖かくて、やわらかくて、どこか切なくて。
遠くで波の音が聞こえた。
それは、まるで「行っておいで」と送り出す声のようだった。
復帰は、思っていたよりも静かだった。
公式から発表がある数日前の午後、SHOOTは東京のスタジオに姿を見せた。
まだ肌寒さが残る春のはじまり。コンクリートのビル街の隙間から差し込む日差しが、少しずつ冬の名残を溶かしていた。
リハーサルが行われていたスタジオの扉を、彼はゆっくりと開けた。
その瞬間、ふっと空気が変わる。
ピアノの音、振付師のカウント、メンバーの笑い声――そのすべてが、ほんの一瞬だけ、音を止めた。
そして、誰よりも先に立ち上がったのは、リーダーのFUMINORIだった。
「……SHOOT」
その声に振り向いたSHOOTは、ほんの少し口角を上げて、柔らかく言った。
「ただいま」
声は震えていなかった。でも、その瞳の奥に宿るかすかな翳りに、皆が気づいていた。
その日、空はやけに高く、窓の向こうに薄雲が浮かんでいた。
照明の落ちた控室のソファに腰を下ろしたSHOOTは、しばらくじっと床を見つめていた。
周囲では、スタッフが機材の準備を進め、メンバーが次の動線を確認している。
けれどSHOOTのまわりだけ、まるで音が遠ざかっているかのようだった。
彼の手は細く、少し痩せたようにも見える。
袖口から覗く手首の白さが、まるでどこか別の世界にいた痕跡のように、儚く揺れていた。
踊ってみようか、とFUMIYAが言った時、SHOOTは「うん」と答えた。
けれど、その返事にはほんの一瞬の“ためらい”があった。
音楽が流れる。
足元のリノリウムが軋む音、リズムに合わせて鳴る靴音。
鏡に映る自分の姿――少しだけ、呼吸が浅くなる。
(……ちゃんと、戻ってこれてるのかな)
一つひとつのステップをなぞるたびに、どこかぎこちなさが混じる。
だが誰も、それを責めなかった。
むしろ、その必死さに、胸が締めつけられるようだった。
音楽が止んだあと、彼は軽く汗を拭いながら、ゆっくりと深呼吸をした。
その表情に、少しだけ安堵が浮かぶ。
けれど、その背中にはまだ、かつての“傷跡”がはっきりと残っていた。
レッスン後、控室の窓から外を見下ろすと、桜の木が遠くでわずかに咲き始めていた。
東京の春の始まり――
喧騒の中にも、どこか新しい季節の訪れを知らせる、穏やかな風が吹いていた。
その風に髪を揺らされながら、SHOOTは小さく呟いた。
「……怖いけど、やっぱりここが好きだな」
その言葉は誰にも聞かれなかった。
でも、部屋に差し込んだ午後の日差しが、その背中をそっと包み込んでいた。
彼はまだ、完全ではない。
だけど、歩き始めていた。
慎重に、一歩ずつ、光の差す方へ――
その姿を、メンバーも、スタッフも、誰よりも兄のMORRIEも、黙って見守っていた。