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一一五六年 保元の乱。
一一五九年 平治の乱。
みなさん、聞いたことはあると思います。
ええ、「主従」の回で取り上げた源義経の一世代前の時代の出来事になります。
今回取り上げる主な登場人物は三名。
一人目は武家政権の礎を築いた平家の頭領・平清盛。
二人目は源頼朝や義経の父・源義朝。
そして、清盛の盟友とも評してよい信西という名の僧です。
世は平安時代末期。
「平安」とは名ばかりの血で血を洗う戦乱の中、三者の想いが複雑に絡まりあい劇的な展開をみせるのです。
ええ、今回は「悲劇を生んだ三角関係」、そして「因縁の過去」のお話です。
BL学の中でもディープな領域に踏み込みますが、検定対策には必須のカテゴリーなのです。
さて、保元・平治の乱とひとくくりにされることもあるこの二つの争いですが、詳しく説明できる人はこの教室の中でも案外少ないかもしれません。
そこで、まずは一一五六年に起こった保元の乱の概要、そして平治の乱へとつながる経緯について説明しましょう。
ここで注目すべきは若き清盛(当時三十九歳)、そして義朝(三十四歳)です。
今、モブ子さんたちから「もう少し若いほうが萌える」という声があがりましたが、こればかりは仕方がありませんよ。史実ですから。
保元の乱は天皇家の後継争いに、摂関家の家督争いが結びついて引き起こされたものです。
鳥羽法皇が長子である崇徳から皇位を奪い、その弟である後白河を即位させようとしました。
これだけでも愛憎入り乱れるドラマチックな展開ですが、この争いにさまざまな勢力が絡んでくるのです。
また同じころ、摂関家の藤原忠通・頼長兄弟の家督争いも起こっています。
兄・忠通が後白河側、弟・頼長が崇徳側につくことで争いはより本格化しました。
この争いには、当時の新興勢力であった源平両氏の武士も巻き込まれています。
ええ、清盛と義朝も否応なく動員されたのです。
悲劇というなら、両氏ともに一族の中で分裂してしまったことです。
清盛は後白河側に、そして彼の叔父の忠正は崇徳側についています。
義朝にいたっては自身は後白河側、そして崇徳側には実の父である為義がついてしまったのです。
このあたりで混乱をきたしたという方もいらっしゃるかもしれません。
そういうときは図に書いてみましょう。
視覚的に理解できますよ。
天皇家と摂関家、そして武家勢力の……まさに骨肉相食むこの争い。
多くの死がある中で不謹慎ではありますが、保元の乱のドラマチックさは日本史上においても一二を争うものと言えるのではないでしょうか。
この戦いの中で、清盛と義朝が友情を深めていったのは想像に難くありません。
歳も近く立場も似ている二人。
貴族たちに使われ──時に使い捨てられるという立場のやりきれなさ。
二人を結びつけるものは多くありました。