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この保元の乱ですが、後世の歴史から分かるとおり、後白河側が勝利を収めます。
崇徳は流罪になり非業の死を遂げたといいます。
また、藤原頼長も戦乱の中で命を落としています。
敗者にとって非常に無慈悲な結末を迎えたこの乱で、実際のところもっとも割を食ったのは武士だといえるでしょう。
敗者についた武士たちには「処断」が下されるのですから。
清盛は叔父を、そして義朝は父を、いずれも斬首という形で失っています。
あまりにむごい殺され方です。
しかも、もとは貴族らの争い。
自分たちは巻きこまれただけなのにという思いもあったでしょう。
怒りと悲しみ、やるせなさ。何とも言えない感情を二人は共有したことでしょう。
加えて当時、都では武士の権力は強くありません。
貴族たちから虫けらのように扱われることもあったでしょう。
同じ思いを抱く互いがいたからこそ、二人はこの時代を耐え抜くことができたのです。
BL学的に表現すれば「友情が、友情以上のものになった」というやつです。
しかし、お話はここで終わりません。
ええ、今回のテーマは三角関係。
初めに名をあげた三者のうち、もう一人の人物を思い出してください。
そう、僧の信西です。
だ、誰ですか、今親父ギャグと言ったのは。
名前ですから仕方ないでしょう。
……えっと。
信西ですね。
上皇の乳母の夫という立場の信西は、保元の乱ののち権力を握りました。
そしてこの信西ですが、清盛と協力関係にあったのです。
保元の乱後、平家には播磨以下四か国という恩賞が与えられます。
清盛も大宰大弐という官位に就きました。
平家の武力、信西の政治力という強力バディにより、両者は権力の階段を登っていったという捉え方が一般的です。
しかし、人物の心情に重きをおくBL学的にはこの流れに違和感を抱かずにはいられません。
なぜならば清盛が出世レースに躍り出た一方で、友情を育んだはずの義朝に与えられた恩賞は微々たるものだったからです。
ここで残酷な仮説が成り立ちます。
信西という人物の登場で、清盛は心変わりをしてしまったのだと。
義朝から信西へ。
友愛から権力へ。
変わりゆく友を、義朝はどんな思いで見つめていたのでしょうか。
想像するにつれ、やるせない思いが募るのがこの乱の、そしてタグ「三角関係」の特徴なのです。
恩賞の不満、信西への怒り、平家への苛立ち、そして清盛への想い──それらが積もり積もった結果、義朝は後白河が住む三条殿、それから信西の館を襲いました。
これが平治の乱なのです。
清盛が熊野詣に出て、留守のあいだの出来事でした。
知らせを受けた清盛が急ぎ帰京しましたが、信西は首を切られたあとです。
戦いは呆気ないものでした。
武力は財力に直結します。
清盛軍と義朝軍の力の差は、今や歴然としていたのです。
清盛軍に敗れた義朝は、落ちのびた先で殺害されています。
こののち平家は栄華を極めますが、義朝の子であった頼朝によって滅亡に追い込まれたというのはみなさんもよく知る歴史の流れですね。
源平合戦のさなか、清盛は高熱により没しますが最後に思い出したのは誰の顔だったのでしょうか……。
このように大きな感情を抱えた三者が相まみえると、そこに待っているのは悲劇だけなのかもしれません。
しかし悲劇という物語の持つ力が、数百年後の私たちの心を強くつかんで離さないというのも、また確かなのです。