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「知らなかった……牡蠣ってこんな種類あるんですね……小長井に、厚岸「丸エモン」……」
大皿のうえに、同心円状に並べられた六個の牡蠣を前に胸をときめかせる、金曜日の夜。――本当は課長の部屋に引き続きお泊りをするのだけれど、今日は、中野さんに誘われ、会社のある品川駅近くの、オイスターバーに来ている。一度こういう店、来てみたかったんだ!
なお、前日に中野さんに誘われたことを課長に相談すると、
『行ってこい』
と即答。
『中野さんは、既婚女性だから、おれには分からないいろんなことを知っているはずだ。相談者は、多ければ多いほどよい。気兼ねなく、楽しんで来な』
確かに、中野さんは、課のみんなと仲がよいし。あでも休日は会わないって言っていた。「美味しそうだね食べよう」と笑みを見せる中野さんを見て、このひとはいったいなにを隠し持っているのかな、なんて思う。
人間、誰でも他人に見せられない裏の顔を持つ。わたしだって、課長にだけしか見せない顔がある。……既婚者の中野さんは、果たしてどんなだろう。疑問を感じつつ、生牡蠣を頬張る。
「――わ。美味しい! ミルキーでジューシーですね!」
「だねー最高!」
生牡蠣の素晴らしい触感、じわっと液があふれてくる感じが、もう、たまらない。
でもわたしは、不覚にも自分を連想してしまった。すぐ濡れて、愛液を排出する……。
勿論そんなことは中野さんには言えないから、テイスティングに集中する。
内装も外観も綺麗なダイニングバー。料理も牡蠣料理が泣いちゃうほどに豊富。続いては牡蠣のガーリックバター焼き、ラムチョップやアヒージョが来るはず。先ずは生牡蠣を味わっていると、中野さんは、
「誘っちゃって大丈夫だった? 三田課長、ひとりでご飯食べてる?」
その発言に、逆にわたしは驚いた。「え……と、中野さん、わたしと課長が同棲してるってこと、知ってるんですか?」
「あーなんとなく。それに、一緒に出社することあるじゃない。初回以外は課長が時間ずらしてるっぽいけど。……いまが一番いい時期だね。羨ましい……」
「なんでも筒抜けなんですね……」わたしは苦笑いを漏らした。「羨ましいって。中野さん、ご結婚されてどのくらいでしたっけ」
「五年だね」きんきんに冷やされた白ワインに口をつける中野さんは、「五年前のあたしの誕生日に、入籍したの。そのほうが覚えてられるってことで。……桐島ちゃん、誕生日いつだっけ」
「八月七日です」
「どっちかの誕生日にするってパターンも多いけど。三田課長と桐島ちゃんのカップルなら、桐島ちゃんの誕生日を選ぶだろうね。三田課長のことだから……」
「やだそんな。……結婚なんてまだ……」
「まだ二十六歳くらいだっけ? 桐島ちゃん」
わたしも、白ワインで喉を潤し、「二十五です」
「わっか!」喉の奥を開いて大声を出した中野さんは、「そっかぁ。まだまだこれからだもんね……。恋人同士の時間も大切だから、大事にするといいよ。やっぱ一緒に暮らし始めると、相手主体になる部分もあるからさ」
「……中野さんの旦那さんは、どんな方なんですか。お仕事ってサラリーマンでしたっけ」
「ううん。フリーのライター。……収入が不安定だから、それも、子どもを作らないって決めた理由」
立ち入った話かもしれないが、中野さんが抵抗がなさそうだったので、聞いてみる。「お二人で話し合って決めたんですか」
テーブルのお向かいに座り、届いたガーリックバター焼きを引き寄せる中野さんは、「そうだね」と頷く。
「結婚って、いろんな犠牲を強いるじゃない? あたし、昔っからそういうの駄目なんだよね。結婚するのかも、ぎりぎりまで悩んだんだけれど。でも一緒にいたいって気持ちが強くて決めたの。
子どもはそうだなあ……お互いに興味がないっていうか。あたし、飲みに行くの日課なもんでね。この日課を奪われたら発狂するわ。まじで」
「……休日とかどんな感じで過ごすんです?」
「あーあたし買い物も好きだから」と短いボブカットの髪を耳にかけると中野さんは、「お互い干渉せず、自由に過ごす、ってルールにしてるのね。ご飯はどっちか暇なほうが作る。掃除も家事も分担。
……あとは、ふたりで食べるときの夕食は、一緒に買い出しに行って、会話をする、ってルールにしている。つまり、週一回は目を見てお互いの話をじっくりするのね。時間も合わないことがあるけれど、そういうときは平日にずらす。だからあたし、平日に飲みに行くほうが多いのよ。友達や会社の面子とか誘って。土日はご近所さんが多いかな」
わたしは感心しながら頷いた。「……中野さん、うちの課のメンバーのみならず、皆さんと分け隔てなく仲良くされてますものね……」
「難攻不落の城が桐島ちゃんだったわけだけど」と中野さんは赤い舌を出す。「うちの家庭のことなら、特殊で、ロールモデルにはならないかもだけど。桐島ちゃんは、結婚の理想とかあるの? こういう結婚生活を送りたいとか」
わたしも、牡蠣のガーリックバター焼きを味わうと、「美味しいですねこれ」と中野さんと目を合わせる。「生牡蠣もいいけど、オーブンで熱せられた牡蠣の風味もたまりません。……話を戻すと」
と、殻を手に、牡蠣の汁をすすったわたしは、
「子どもはふたり欲しいです」
「……そのこころは?」
「わたし自身が一人っ子なので。いえ、ある程度自由にやらせて貰ったので感謝はしているんですが。でも、家庭内で、ほぼ同じ立場で、物を考える人間がいたらいいな、と……。
自分が親になったら、子どものほうは、打ち明けられない悩みとか出てくると思うんで。そういうときに、きょうだいがいたほうがいいな、と……」
思えば、自分がレイプされたとき、姉妹がいたら、その子に打ち明けていたのに。そう思うとなんだか切ない。
「桐島ちゃんいろいろと考えてんだね」中野さんがグラスを傾けると、アヴァンギャルドなネイルの色が明らかになる。「そっかぁ。うち、兄ふたりいたからもう、やかましくってさ。相談もなにもなかったよ」
「中野さんってお姉さんぽいですよね。姉御肌ですし、妹さんがいそうな感じ……」
「よく言われるよ」と中野さんは笑い、「面倒見がいいってよく言われるけど、放っておけないじゃん? 新人の子とか……結婚した子がいるとか、そういうの」
確かに、周りの冠婚葬祭に対して、中野さんは、敏感だ。誰かが結婚する、誰かに子どもが生まれる、となったら、率先して幹事役を担い、みんなからお金を集め、プレゼントを渡す……。
生まれながらにそういうひとはいるのだ。困っている人を放っておけない。他人の幸せを自分のことのように喜べるタイプ。こうやっていろんなひとの面倒を見ているから、中野さんにとって、みんなが家族なのかもしれない。
「こないだの、刺しゅう入りのタオルとか素敵でしたよね。あれ、どこで買ったんです?」
わたしは実物は見ていないが写メで見た。ピンクで、可愛らしくて、『るり』という名前の刺しゅうが入った、タオルグッズ。布で作られた愛らしいうさぎのがらがらも入っていたはず。
「新宿のデパートで。いいよね、ああいうの。名前聞き出しといて、おくるみの布と、ミニハンカチと、全部、刺繍で名前が入っているの。見つけた瞬間あーこれだ! と思ってね。
こういうことが好きだからなおのこと、子どもとか考えられないんだ。欲しいと思わなくはないけど、……みんなのおせっかいを焼くのも好きだし、酒飲むの楽しいから、その楽しみを奪われるとね。あたしが、あたしでなくなっちゃう感じがするんだ。
それに、子どもが出来たら『奪われる』じゃない。それも女としての幸せだとは思うんだけど。たぶんね、あたし、器用な人間じゃないから、子ども出来たら、子どもだけに愛情を注いで、前ほど旦那さんに愛情を注げなくなる気がするんだ。いまは会えない時間もあるから、彼への愛も育つし。なんというか、いまんとこ必要ないんだよね。いなくても全然、成り立っているし。勿論、子どもが欲しい人の気持ちは否定しないけど」
「お二人で納得して決めたことなら、全然――いいと思います。……て、あ。未婚のわたしが偉そうにすみません……」
「意見を言うのに、立場や年齢は関係ないから」さらりと言いきる中野さんは、「親戚からはいろいろ言われるけどさぁ。親とかも。まあ兄たちが結婚してて子どももいるから、これ以上孫が欲しいってのはないみたいだけどさあ。入学祝いとか大変だって言うし。
……なんかさっきから地味でしみったれたことばっか言ってるよね。せっかく桐島ちゃんと飲んでるのに、楽しい話出来なくってごめんね?」
「いえわたし。お姉さんが出来たみたいで、嬉しいです……」
「そっか。お姉さんかわたし……」中野さんは頬を上気させて微笑み、「嬉しいな。あたし、妹が欲しかったんだ。ねえ、桐島ちゃんさえよかったら、たまに、こうして、飲まない? あとさ、時間とか合えば、ショッピングに行こうよ。桐島ちゃん、割りとシルエットの同じ服ばっか着てるから、たまには変えてみたら?」
それは、課長にも指摘されたことだった。「あ、早速この連休に、課長と服を見に行こうかと思ってまして……」
「へーそうなんだ。楽しみ。イメチェン? 桐島ちゃんが、また、どんなふうに変わるのか楽しみだなぁ」
こうやって女性とふたりっきりで飲んで、食べるなんて、思い出せないくらいに昔のことで。わたしは、お酒は一杯に留め、中野さんとの豊かなひとときを、楽しんでいた。
* * *
帰りの電車に乗ると、課長にメールを送った。
返信はない。まめな課長にしては珍しいが……。せっかくの、大型五連休に突入する夜。お酒やおつまみとか、買って行こうと思ったのにな。
駅についても返信がないので、自分の好みのものを買い、合鍵を使って課長宅に入る。
「ただいまー。……お邪魔します」
返事はない。電気が点いていることからすると、寝てはいないようだが。わたしは腕時計を見た。二十二時。普段なら課長は起きている時間帯のはずが。
手を洗い、リビングに行くと、ソファーで寝ている課長の姿を発見した。テレビも点けっぱなしで。
んもう。課長、なんだか、子どもみたい……。
本当はあの高級ベッドで寝かせてやりたいところだけれど、わたしひとりで運ぶのは厳しいので、しばらくソファーで休んでて貰おうと思う。課長の紺色のパジャマ、すごく素敵。なにを着ても似合うひとだ。
わたしは課長の眼鏡を外し、テーブルに置くと、テレビを消した。それから、頑張って課長のからだを持ち上げ、頭と足までがソファーに乗っかるように移動する。細身とはいえ、課長ながっちりとした筋肉のついた男なので、動かすのに一苦労だった。
それから、寝室からタオルケットを持ってきて、課長のからだにかけた。まだ暑い九月とはいえ、なにもかけずに寝たら、風邪を引いてしまうかもしれない。
テーブルに置かれた課長の携帯は、ランプが点滅している。とすると課長は未読のまま、寝落ちしてしまったということか。
わたしがシャワーを済ませ、髪をドライヤーで乾かしてきても、課長はまだ寝ていた。朝までコースだなこりゃ。
そっと課長を見つめられる位置に座り、課長の唇に唇を重ねる。
「……ん、あ……莉子?」
「課長? 起こしてしまいました? ごめんなさい……」
「あ、いいの。おれ……莉子……可愛い……」
そう言って寝ぼけまなこの課長はわたしの髪に触れるとまた、眠ってしまった。
疲れているのだろう。ここで寝かせてやろう。わたしは、座布団を引き寄せるとその上に座り、課長の顔を胸に抱き締めるかたちで、眠りに入った。眠りに入るまで、いろいろなことを考えていた。
世の中には、結婚出産がすべてだと考える人間が多くいる。それが、当たり前なのだと。彼らからすれば、ひょっとしたら中野さんの生活スタイルは、受け入れられがたいものかもしれないが。本人同士が納得している以上、他人に言えることはなにもないだろう。仮にわたしが中野さんの妹だとしても、同じふうに思う……はず。
でも。
わたしは、この腕のなかで無防備な顔を曝して眠る、このひとの子どもが欲しいな、と思う。どちらに似るかな? どんな子どもが生まれるんだろう。そして――このひとの血を受け継ぐ子が欲しいという、本能的な欲求。わたしはたぶん――子宮で恋をしている。課長を見ると、女が、疼く。
そのことを教えてくれたのは他ならぬ課長だった。好きになると、相手のなにもかもを。相手との幸せな未来をつい、欲してしまう。
自分がこんなにも欲深だなんて知らなかった。日本の自殺者は毎年三万人を超えると聞く。自ら命を絶つ人間もいれば、こんなふうに――好きな人と永遠に生きていたいと願う者もいる。
当たり前の幸せ。それはとても大事なんだな……。
大好きな課長に触れたまま、本物の課長の髪の香りをたっぷりと吸い込み、唯一無二のひとへの確かな愛を感じながら穏やかに眠る。これからの幸せな未来を予感させる、平凡で、ありきたりだけど、でも、宝物のような出来事。生きていることの幸せを――愛することへの幸せを感じながらわたしは目を閉じた。
*