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hotaru🌙
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些少な平穏はあまりにも唐突に、そして酷薄に破られることとなる。
更に数日後。目黒邸の重厚な執務室にコンコンコン、と扉を叩く音が響く。
「御館様、ラウールで御座います。」
「…あぁ。入れ。」
磨き上げられた黒檀のドアが静かに開かれ、ラウールが無機質な足音を立てて足を踏み入れた。其の手に捧げ持たれているのは、一枚の薄い紙片。
「御館様。陸軍本部より、緊急の公文書が届いております。」
ラウールの整った顔立ちには一切の感情が削ぎ落とされていた。只、深く頭を下げて手渡す其の一瞬、何処か痛む様な微かな翳りが其の瞳を掠める。
目黒の元へ届いた、軍本部からの緊急の召集状。ラウールから其れを受け取り、封を切って中に収められた薄い紙を広げた瞬間、彼の瞳から一切の温度が消え去った。
紙面に躍っていたのは、太く無骨な活字で印字された『緊急出征命令』の文字。
紙面には、大陸での戦局悪化と前線の混乱、そして即時出征を命じる旨が無機質に記されていた。其の末尾に刻まれていたのは、自らの名。
国家の命、そして軍人としての義務。拒否など許されぬ、苛烈極まる現実。
「………。」
紙片を握り締める目黒の指先に、ぎちぎちと強い力が籠る。命に従わねば国賊と為り、目黒家其のものが一瞬で潰える。当主としても、将校としても、背く選択肢等…最初から存在しなかった。
──本当は、戦争等したくない。異国の文化に触れてみたい。自分の興味の赴く侭に見聞を浴びたい。
(…其れなのに、何故俺は手を取り合える筈の者を殺めなければならないのだ?)
「…御館様、」
「大事無い。…少し待て。」
其れよりも真っ先に目黒の頭に浮かんだのは、自らの命の危険でも、家の存続でも無かった。
下町の小さな時計店。其処で作業に没頭し、最近になって漸く身構えるのを止め、少し照れ臭そうに『目黒さん』と自分の名前を呼び始めてくれた、あの向井の姿だった。
身分も立場も違う筈の二人が、僅か乍らに心を通わせ始めたばかりの、あまりにも愛おしく繊細な時間。
「………ラウール。」
「はい。」
「出立の準備を。」
「、…畏まりました。」
低く命じる目黒の声に、ラウールは静かに胸元に手を当て、深く礼をして部屋を辞していった。
冷酷な軍報を前に、目黒は静かに目を閉じる。だだっ広い邸宅のしんと静まり返った執務室の中で、一人の男としての小さな願いが、無慈悲な時代の波に呑み込まれていくのを、只々痛切に感じていた。
出征を明日に控えた薄闇の夕刻。
下町のしとしとと降る小雨の中、重く硬い軍靴の音が路地に響く。
軍服の襟を正し、目黒は向井時計店の静かな引き戸をゆっくりと開けた。ちりん、と切ない鈴の音が鳴る。
「失礼する。」
「あ、いらっしゃい!…目、黒さん…、」
「…康二。」
目黒の声に奥から顔を出した向井は一瞬ぱっと顔を輝かせたが、彼の身に纏う服装と重苦しい表情を目にした瞬間、言葉を失い、表情を強張らせた。
「明朝、私は戦地へ出征する。此の時計は其の侭預かっていて欲しい。」
静けさを切り裂いて落ちた低く重い声。
目黒は懐から、あの代々伝わる大切な懐中時計を取り出し、そっと作業台の上に置いた。
「!…そんなに、戦況悪いん…?」
「………。」
衝撃に息を呑み、目元を歪ませる康二に目黒は何も言えず、目を逸らすしか無かった。けれど彼は直ぐに溢れそうになる涙をぐっと堪えると、奥の棚へと手を伸ばし、一つの小さな箱を取り出した。
「大事に預かる。預かるから…代わりに、此れ、持ってって。」
向井が手渡したのは、丁寧に磨き上げられた一握りの新しい懐中時計だった。
「此れは?」
「壊れた時計から、未だ使える部品を集めて一から作ってみてん。今んとこ正常に動いとるけど、何分寄せ集めやから…念の為にちゃんとした代替の物も一緒に持ってっても、」
「必要無い。」
震える手で差し出された其の時計を、目黒は静かに受け取った。
そして、ゆっくりと目を閉じる。
チク、タク、チク、タク……。
掌の中で刻まれる、真っ直ぐで力強い針音と僅かに歯車が起こす鼓動の様な振動。
其処には向井康二という男の心の温もりと、命を吹き込んだ職人の情熱が、確かに息吐いていた。
目を閉じた侭目黒は時計を耳元へ運び、秒針の音だけに深く集中する。
「──良い音だ。」
「…ほんま?」
「あぁ。…賃借代は?」
正当な対価を払おうとする目黒に、向井は強く首を振った。胸の前で固く拳を握り締め、目黒の瞳を真っ直ぐに見つめ返す。
「目黒さんの大事な時計を預かるんやから、ほんまに要らん。無事に帰って来て、受け取りに来てくれるなら…其れだけでええから。」
無事に戻って来て、自分の手から受け取って欲しい。言葉の裏に在る切実な祈りが、目黒の心臓を強く打ち叩く。
「御武運を。」
「………。」
目黒は緩やかに、だが力強く頷いた。
向井の想いが詰まった手作りの時計を胸の衣嚢へ、自らの命を守るかの様に心臓の真上へと丁寧に仕舞い込む。
「では、…遠慮無く借りる。」
「うん、気ぃ付けてな。」
返事の代わりに目庇に指を掛け、言葉もなく引き戸を開けて店を後にする目黒。
遠去かる軍靴の音を聞き乍ら、向井は作業台の上に残された目黒の懐中時計をそっと握り締め、
「しゃあないねん…目黒さんなら大丈夫や…。」
自分に言い聞かせる様に、向井は静かに目黒の無事の帰還を祈り続けるのだった。
未だ目黒が、ずっと幼かった頃。 広い目黒邸の庭を二人の少年が駆け回っていた。
「待てよ、ラウール!」
「蓮様が遅いんだよ!」
「様って付けるなって言っただろ!」
「だって坊ちゃまだもん!」
「坊ちゃまじゃない!」
振り返ったラウールがけらけらと笑う。その後を追い掛ける目黒も、今では考えられない程無邪気な笑顔を浮かべていた。
ラウールが目黒家に奉公し始めたのは、そんな幼い頃の事だった。先代当主である目黒の父が、未だ幼い息子の目付役として呼び寄せたのである。年の近い二人は、主従と云うよりも友達に近かった。
庭で遊び、書斎で悪戯をし、時には父親に叱られて二人揃って正座をさせられ、頭を下げる。
「蓮様、また怒られちゃったね。」
「…殆どラウールの所為だろ。」
「蓮様も一緒にやったじゃん。」
「俺は悪くない。」
「嘘吐きぃ。」
「…ふふっ、」
そんな他愛のない時間が、確かに二人には在った。
しかし、或る日を境に、其の関係と屋敷の空気は静かに変わり始めた。
弟である亮平の誕生だった。
次男として生まれた幼い亮平に、両親や側近の関心と愛情は一気に集まっていった。病弱で繊細な亮平を気遣うあまり、母の腕の中に目黒が抱かれる機会は急激に減り、父の視線も又、幼子へと向けられる時間が増えていく。
「蓮。お前は目黒家の長男なのだから、我慢なさい。」
「長兄として、もっとしっかりしろ。」
「………はい…。」
甘えたい盛りの目黒に掛けられるのは、優しさではなく長男としての厳格な躾と、跡取りとしての厳しい教育の言葉ばかりだった。両親に構って貰えなくなった寂しさを押し殺し、弟を気遣い、健気に良い兄を演じようと踏ん張る目黒。
そんな彼の背中と誰にも見せない孤独を、ラウールだけは一番近くで見つめていた。
そして、決定的な破滅は突然やってくる。
先代当主の急死。十代になり、成長期を迎えているとはいえ、未だ幼さの残る目黒は長男としての厳しさに耐え抜いた末、突然に目黒家当主という逃げ場の無い重い肩書きを背負うことになった。
葬儀を終えた夜。ラウールはある部屋の扉の前で一人、姿勢を正して控えていた。
いつもなら眠る時間になっても、目黒は自室へ戻ろうとしない。
「蓮様、失礼いたします。」
痺れを切らして入室した、先代の書斎。其の大きな机の前に一人で座り、山積みになった書類を目黒は黙って眺めている。
「…蓮様。」
呼び掛けても、返事はない。
「もう遅いよ。今日はお休みになった方が──」
「ラウール。」
初めて聞くような低い声だった。
「…『私』は、目黒家の当主だから。」
ラウールは言葉を失った。未だ少年の面影を残した顔に、似つかわしくない程静かな決意が浮かんでいる。
両親の愛を我慢し続け、長男として背負い続けてきた少年が、遂に逃げ道を完全に塞がれた瞬間だった。
「父上の代わりをしなければならない。亮平も、母上も…私が守らなければならないんだ。」
「でも…。」
「泣いている暇なんて無い。」
そう言って、目黒は机の上の書類へ視線を落とした。
其れから少しずつ。本当に、少しずつだった。
彼から表情が消えていった。
庭で遊ぶ事も無くなった。下らない冗談を言う事も無くなった。
頼まれれば《分かった》と答え、叱責されれば頭を下げ、褒められても感謝は言えど表情一つ変えない。
まるで、感情を見せる事其のものを忘れてしまったかの様に…其れは、かつての先代の教えの通りであって。
「御館様、御食事の時間で御座います。」
「……あぁ。」
「本日は午後から軍の方とのお約束が、」
「分かっている。」
「では、私は御召し物を準備して参り──」
「ラウール。」
「はい?」
「…いや、…何でもない。」
何かを言い掛けて、目黒は口を閉ざす。其の瞬間だけ、幼い頃の彼が顔を覗かせる。けれど次の瞬間には、又冷たい仮面を被ってしまう。
ラウールには、其れが痛い程解っていた。
本当は、寂しいのだ。ずっと昔から、誰かに甘えたかったのだ。誰かに慰めや労いの言葉を言って欲しかったのだ。
けれど、誰も其れを云えない。彼の周囲に居る者達は皆、伯爵家当主としての彼しか見ていないのだから。
だからこそ、
向井時計店への遣いを任された時、ラウールは僅かな違和感を覚える事となる。
「…向井様、で御座いますか。」
「あぁ。」
「珍しゅう御座いますね。」
「何がだ。」
「御館様が、随分と嬉しそうにお話をされますので。」
書類に次々と署名する目黒の手が止まる。
「、…そうか?」
「はい。」
「…自覚は無かった。」
ほんの僅か。其れでも確かに、目黒の口元が緩んだ。
幼い頃の友達だった少年は、長男としての孤独と寂しさを抱えた侭、長い年月を掛けて『氷の伯爵』と呼ばれる男に成った。其の男の固く閉ざされた心に今、太陽の様な存在が触れようとしている。
「左様で御座いますか。」
ラウールは、其れを只静かに見守っていた。
──どうか。蓮様が其の仮面を脱ぎ、お一人で全てを背負わなくても良いお相手でありますように。
そんな祈りにも似た願いを、胸の奥にそっと仕舞い乍ら。
コメント
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ラウ〜🤍(TдT)ええコや✨