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「雫? 珍しいな、今日はどこか出かけるのか?」
「……ええ、ちょっと麻理と約束があって。そういう岳紘さんは今日はずっと家にいるの?」
奥野君に会いに行こうと決めていた土曜日、休日出勤でもして絶対に家にはいないと思っていた岳紘さんから声を掛けられた。どうしてこういう時に限って彼の方から歩み寄ろうとしてくるのか、タイミングが悪いとしか言いようがない。
私も彼に合わせれば良かったのに、ずっと放っておかれた悔しさからか素直にそうする事が出来ずにいた。
「ああ、今日はそのつもりだった。だが君が出かけるのなら、俺は少し散歩にでも行くよ」
「そう、気を付けてね」
昼食を用意しておこうかと夫に尋ねたが、どこかで食べてくるからいいと言われたのでそのまま家を出て喫茶店へと向かう。
タクシーで向かった前回とは違い、駅まで歩きそこから電車に揺られながら奥野君に何と話しかけるかを考える。この前はごめんね、と謝るのが良いだろうか? それとも何もなかったように、元気だった? と笑顔で隣に座ってみようか。そんな事を何度も何度も繰り返し考えているうちに、目的の駅に到着する。
「奥野君がいなくても、気晴らしになるから大丈夫……」
本当は彼にこの店で私を待っていて欲しい。でも私を避けるために喫茶店に来てなかったら、それはそれでショックなのでそう自分に言い聞かせておく。その方がダメージが少なくて済むから。
でも、それは杞憂だったようで……
「雫先輩! 良かった、来てくれたんですね!」
「ちょっ、いきなり抱き着かないで。私は既婚者なんだし、そういう過度なスキンシップは厳禁よ?」
喫茶店のドアを開けて中を覗いた途端、カウンターに座っていた奥野君がこちらを見て飛び掛かるように抱き着いてきたのだ。
この前の時に私が冷たい態度で彼を置いていったのがよほど堪えたのか、奥野君は何度も「すみません」と謝ってくる。悪いのは彼じゃない、中途半端な気持ちでフラフラしている私の方なのに。
それでも先輩としての余裕を見せつけるように、動揺を隠して彼から距離を取る。奥野君に疾しい気持ちが無くても、やはり岳紘さん以外の男性に触れられるのには抵抗があって。
「そうですね、つい学生の頃に気分で調子に乗りました。雫先輩の一番傍にはあいつがいるんですもんね、今も昔も……」
「そうね、多分これから先も」
ハッキリと未来も岳紘さんと一緒なのだと言えないのは、彼には別に愛する人がいるから。今は私が妻でも、いつ夫から別れて欲しいと言われるか分からない。
自分の中でシュミレーションしてみてもまだ現実味はないが、十分その可能性はある。いつそうなっても一人で立っていられるように覚悟はしておかなければ。
「本当に雫先輩は変わらない、俺に気持ちを知る前も知ってからも全然気にもとめてくれないよね。そういうところが昔から好きで嫌いだった」
「意味が分からないわ、結局どっちなの?」
気にも留めてないなんてことはない、もし本当にそうならば私は今ここにはいない。あの時だって助けを求めるようにこの場所には来なかっただろう。
だけどそれを口に出すことは出来ない、奥野君に中途半端に期待をさせたりするのは嫌だから。そして私も、これ以上彼に心揺さぶられるわけにはいかない。
「言わなくても分かるでしょ? 本当に嫌いならこんな顔して貴女の事を待ってたりしない」
「……」
真っ直ぐな好意が嬉しくないわけじゃない、本当は岳紘さんにこういう感情を私に向けて欲しかったのだから。でも、今私を熱く見つめているのは彼じゃない。
……きちんとした妻を持ちながらそれでいて私を口説こうとする、そんな既婚者の後輩だ。
「夫がいる身で遊び相手になるような女だと思っているの、奥野君は私の事を」
「いいえ、まず無理でしょうね。第一、雫先輩がそんな女性なら俺だってこんなに気にもしなかったですし」
分かってる、ならば何故こんな事ばかり言うのか。彼は好意を隠そうともせず態度で示してくるのか、今の私には理解出来ない。
「じゃあ一体どうしたいっていうの、このまま傷付いた私の避難場所にでもなってくれるとでも?」
「雫先輩が、そう望むのなら」
それが当然だというように奥野君は考える素振りも見せずに答える。私にだけ都合のいいそんな場所に平気でなろうとする、目の前にいる彼の本音は読めなくて。
私は奥野君の学生時代の先輩に過ぎない。そこに隠された好意があったとしても、その気持ちがどうしても理解出来なくて。
「なんで、そこまで……」
「そうですね。他の男の前で弱音を吐かれるくらいなら、弱みを見せられるくらいなら俺のところにいて欲しいからでしょうか」
もう揺らがないと決めたのに、真っ直ぐな言葉に心が揺さぶられないわけがなくて。嫌いなわけじゃない、異性として意識していなかっただけ。
でも、それももう無理な気がしていた。私を見つめるのは弟の様だった後輩ではなく、いつの間にか一人の男性に変わっていて。
「俺は逃げ場でもいいです、雫先輩が俺を必要としてくれるならそれでもいいから。だから俺からは逃げないで」
「奥野君、私は……」
自分はそこまでしてもらうほどの価値がある女だろうか? 何年も想い続けた夫にも愛されず、どうすればいいのかも分からなくなっているような人間なのに。
それでも奥野君のその気持ちにジンと私の心が暖かくなるのも事実で、この感情をどうすることも出来なくなって。