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二人は商店街の一画の仕立屋へとやって来た。幾人もの針子が雇われており、この街のみならずこれほど大きな店は多くない。いまも人に溢れ、中々に繁盛している。幸いなことに古着も取り扱っていて、様々な体格にあった衣服が用意されていた。補修もきちんとなされており、その上で寸法直しも行えるとのことだった。古着の中には遠く離れた土地から長い旅を経てこの店へとたどり着いた衣もある。そういった衣は得てして、他所の土地の空気を含み、魔法の端切れを引っ付けていた。人知れずやってきた潮風や花畑の香り、魔法の残滓が店を漂い、馴染み、ある種の郷愁に似た雰囲気に浸されている。
ベルニージュは注文を終え、用意された二人掛けの長椅子に座る。そして突っ立ったままのレモニカに声をかける。
「座んなよ」
「ええ、はい。ありがとうございます」
「ワタシが用意した椅子じゃないけどね」
二人の間に気まずい空気が流れ、打破するようにレモニカが尋ねる。
「あの、それで、どのような魔法になさるのですか?」
ベルニージュはぼんやりと店の奥の針子たちの業を見ながら考える。
「うーん。そうだなあ。グリュエーと相性の良い魔法が良いから――」
「空を飛ぶのですわね!? まさにいま【上昇】を作ろうとしているのですもの。翼ある太陽。鳥の群れ。天の御使い。崇高。永遠。寄る辺なき魂。まさにユカリさまにぴったりですわ」
「寄る辺はあるでしょ」と言って、ベルニージュは腕を組んで小さく唸る。「それに、あれはもう飛んでるようなものじゃない? 正確には吹き飛ばされている、なのかもしれないけど。それに常に力を発揮し続ける禁忌文字を使うと、服だけ飛んで行っちゃうからね。かといって呪文や儀式っていうのもなあ……」
飛び去る服に追いすがろうとするユカリを想像して、ベルニージュは笑みを浮かべる。
「なるほど」レモニカは目に見えて落ち込んだ。「良い案だと思ったのですけど。そういうものなのですね」
「うん。人間が空を飛ぶのは簡単じゃない」魔導書でもない限り、だ。とベルニージュは心の中で呟く。「でもワタシも良い案だとは思うよ。例えば姿勢制御が容易くなる衣を作れば、今みたいにグリュエーのなすがままに吹き飛ばされる不格好な状態は避けられる」
「あれは上下左右が分からなくなってしまいますものね。ユカリさまはそれでもすぐに体勢を立て直しておられますけど。体勢が崩れないなら、それに越したことはありませんわ」
「まあ、それでも簡単ではないよ」とベルニージュは簡単に言う。「普通の墨じゃ力が足りない。力強い墨じゃないとね」
レモニカは何かを想像する時のように天井に目をやって言う。「力強い墨、ですか? それはどのような?」
「例えば強力な怪物の血だとか、その為に神代から育てられてきた植物だとか、地上と冥府を分かつ壁に使われている鉱物だとか」
「それは、手に入れるのが難しそうですわね」レモニカは気難しい顔で呟く。「墨一つとっても色々とありますのね」
「今のは例えで言っただけ。文字を記すのに必ずしも墨である必要もない。これだけ大きな街なら何かしら見つかるだろうし、それに一応一つ考えがあるんだけど――」
「申し訳ございません」
レモニカに唐突に謝られ、ベルニージュは困惑する。
「え? 何? 何が?」
話の筋がどこかに落ちてはいないかと、ベルニージュはきょろきょろ辺りを見回す。
「いえ、その、二手に分かれられなくて、申し訳ございません」
思いのほか些細なことでベルニージュは拍子抜けする。そして長椅子に座る二人の間に拳一つ分の空間があることに気づく。この空間を作ったのがどちらなのか、ベルニージュにも分からなかった。
「ワタシは男が嫌いなのであって、レモニカ、あなたが嫌いなわけではないってこと、分かってる?」
レモニカは歯切れ悪く答える。「それは、はい。そう思ってくださっているのだと……」
「まあ、理屈で分かっていても、実際に嫌な態度を取られてしまうと、気持ちはままならなくなるんだろうけど」
「いえ、そう、ですわね。そうでした」とレモニカは途切れ途切れに言う。
「うん? 過去形?」
「知らない観客や、コドーズの態度は、もう平気でした。慣れたのですわ。慣れたのですが」レモニカは空いた手で長椅子に置かれたベルニージュの手に触れる。その震えがどちらの震えなのかベルニージュには分からなかった。「ベルニージュさまやユカリさまには嫌われたくありません」
「嫌ってないって言ってるでしょ」ベルニージュはレモニカの手から逃れるようにして言った。そして自身の手に汗がにじんでいることに気づく。「ああ、つまりこういうことが嫌なんだね」
ベルニージュがちらと見たレモニカの表情は、どういうことか分かっていないようだった。
「分かったよ。じゃあ、そう、勝負ってことに……。勝負しよう」とベルニージュは言う。
「勝負?」
「うん、ちょっと待ってね」ベルニージュは両の手汗を両の袖で拭い、大きく息を吐く。そうして不敵な笑みを浮かべて偉丈夫レモニカの顔を見上げる。「今後は二度と態度にも出さない。震えもしなければ手汗もかかない」
レモニカは理解が追い付かないという眼差しで隣に座るベルニージュを見下ろして、首をひねる。
「態度などというのは出さないといって出さずにいられるものではないと思うのですが」
「出さないったら出さないの!」
レモニカは困った表情を浮かべ、観念したように言う。「それでは、どうすれば勝ち負けが決まるのですか?」
「レモニカに対して恐れたり嫌ったりしているかのような態度をしない限り、ワタシの勝ち」
やはりレモニカは首をひねって言う。「いつまでですか?」
「今後二度となんだから、いつまでもだよ」
レモニカは野太い声で笑う。「それは少し不公平ではありませんか?」
「そんなことないよ。勝負に賭けるもの次第だね。勝負の内容を含めてそれらが釣り合えば文句ないでしょ?」
「そうですわね」とレモニカは頷く。「それで、わたくしが勝った時に何をしてくださって、わたくしが負け続ける限り何をすればよろしいのですか?」
「レモニカが勝った時は何でもする。だからワタシが勝ち続ける限り、言いたいことは全部言って。隠し事はありだけど、遠慮はなし。どう?」
自信に満ちたベルニージュを見下ろして、レモニカは苦笑する。「大きく出ましたわね。はい、分かりました。ベルニージュさまには敵いませんわ」
「勝負事には強いんだ」そう言ってベルニージュはレモニカの丸太のような腕に細い腕を絡ませる。
そこに冷や汗も震えも何も、全ての恐れを抑えていた。そのことにレモニカが気付いているのか、態度からは分からなかった。
「それでは一つ、ご相談に乗ってくださいますか?」とレモニカは言う。
「何でも聞いて。ワタシ相談に餓えてるから」とベルニージュは答える。
「わたくしにも何か戦える手段はないでしょうか?」と言うレモニカの眼差しは真摯だった。
「それは難しいね」とベルニージュは間髪入れずに答える。「何でまた? ってこともないけどさ。あんなことがあったし。でも守ってもらうことを後ろめたく感じるならコドーズの脅威を取り除く前であるべきじゃない?」
「はっきり言いますわね」
「言いたいことを言う性格だからね」
レモニカは苦笑を浮かべてため息をつく。
「確かにベルニージュさまの言う通りです。でもむしろわたくしは、コドーズのことが片付いた今もこの気持ちを感じていることに、とても重要な意味があると考えています」
レモニカの言葉を受けて、ベルニージュは何か言おうとした言葉を飲み込む。
それに気づいたレモニカがにやりと笑みを浮かべる。「言いたいことは言うのではありませんの?」
「言いたくなかったんだよ。まあ、いいや。戦い、ねえ。その男の姿の時に剣を佩いているようだけど、それは使えないの?」
「剣術の心得はありませんし、そもそも」と言ってレモニカは剣を抜こうとするが、抜けない。「これは幻の姿でしかないので、この姿を変化させることはできませんの。服を着ることや脱ぐことができないのと同じだと思います」
「そういえばそうだったね」ベルニージュは腕を組んで小さく唸る。「じゃあ戦いに使える魔法かあ。うーん。当り前だけど剣術と同じで戦闘に使える魔術っていうのも、それなりの修練が必要だからね」
「それは存じております」レモニカの声は落ち込んでいるが、しかし何かないかと期待しているらしい。
「ちょっと待って」と言ってベルニージュは抱えた背嚢を覗き込む。いくつかの書物と食料と魔法がごちゃごちゃに入っている。「何かあったっけ? 魔法道具的な? うーん……あ!」
ベルニージュが背嚢の中から見つけたのは小さな硝子の瓶だった。瓶を取り出して目線に掲げる。中には紫色の蜥蜴が入っていて、ぱたぱたと手足と尻尾を動かしている。
「それは、あの時の呪いですね? ヴァミアの怪物、蟹猿たちが黄金を強烈に欲することになった原因の」
「そう、これをくれてやろうではないか」とベルニージュは魔法使いの師匠のように厳かに言う。
「しかし先生、いったいどのように使えばよろしいのですか?」
ベルニージュは硝子の瓶の蓋を開け、瓶の口に小さな呪文を唱える。すると蜥蜴は眠りに就いたかのように大人しくなった。
「ちょっと口開けて」とベルニージュは言う。
「嫌ですわ」とレモニカは言う。
「いいから」
「御免被りますわ」
「分かったよ。他に何かあったかな。ちょっとこれ持ってて」と言ってベルニージュは瓶をレモニカに握らせる。
そして高らかに指を鳴らす。すると蜥蜴が瓶から飛び出して、レモニカの腕を這い上がり、悲鳴の溢れる口の中へと躊躇も遠慮もなく飛び込んだ。
レモニカと仕立屋にこっぴどく叱られた。