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ジェイド様の馬車に揺られ、私はついさっきまで自分の家であり
幸福の象徴だと思い込んでいた場所が遠ざかるのを、窓からじっと見つめていた。
視界の端で、忌まわしい屋敷の輪郭が夜の闇に溶けていく。
隣に座るジェイド様の横顔は、月光に照らされて彫刻のように整っているけれど
その切れ長の瞳の奥には、すべてを焼き尽くすような静かに燃える青い炎が見えるようだった。
「……申し訳ありません、ジェイド様。私があんな挑発をしたばかりに、あなたまであんな醜悪な場に巻き込んでしまって」
沈黙に耐えかねて私が謝罪を口にすると、ジェイド様は視線をこちらに向けず、低く心地よい声で答えた。
「いいえ。むしろ感謝しているくらいですよ、ロゼッタさん。マリアの正体を、これ以上騙されずに知ることができたのですから。…あのまま仮面夫婦を続けていたら、僕の人生はもっと取り返しのつかないことになっていた」
アシュフォード侯爵邸に戻ると、重厚な玄関では先ほどのメイド長────
ジェイド様の実のお母様が、主人の帰宅を、そして身を案じて今にも泣きそうな顔で待っていた。
「ジェイド、ロゼッタさん……! どうなりましたか……? お話はついたのですか?」
ジェイド様は努めて冷静に、けれど一言一句を噛みしめるように事実を伝えた。
カシウスとマリアが、一糸纏わぬ姿で悦びに耽っていた醜態。
そして、罪を認めるどころか、開き直った彼らから「離縁」と「追放」を突きつけられた
その信じがたい一部始終を。
「なんてこと……っ。そんな…さぞ、お辛かったでしょう。……ロゼッタさん、ジェイドの言う通り、今日からはここをあなたの家だと思ってください。あんな不誠実な者たちのところにいるよりかは、毒がなくていいはずですから」
お母様の温かく、慈愛に満ちた言葉にずっと張り詰めていた心がふっと軽くなるのを感じた。
◆◇◆◇
その夜───…
ジェイド様の屋敷の、贅を尽くした客室に案内され、私はようやく一息ついた。
身の回りのものを持ち出す余裕なんてなかったから、今着ているナイトドレスはジェイド様のお母様が貸してくださったものだ。
上質なシルクの肌触りが、今の私の境遇を皮肉に際立たせる。
夜も更けた頃、脳裏に焼き付いた不倫現場の光景が離れず、私は寝付けずにいた。
気休めに、用意されたバルコニーへ出て夜風に当たってみる。
すると、ふいに隣の部屋──
ジェイド様の書斎の窓が静かに開き、彼が顔を出した。
「眠れませんか、ロゼッタさん」
「……ジェイド様。ええ、少し。今日起きたことがあまりに衝撃的で……まだ、悪い夢を見ているような心地なのです」
「少し、話をしませんか。温かい飲み物を用意します」
私は彼の穏やかな誘いに甘え、隣の書斎へと足を運んだ。
部屋には、彼が淹れてくれたハーブティーの香りが優しく漂っている。
湯気が、冷え切った心を少しだけ解きほぐしてくれる。
「……私の結婚生活は、三年間でした」
どちらからともなく、過去の話が始まった。
私は温かいカップを両手で包み込み、揺れる琥珀色の水面を見つめながら、ぽつりぽつりと話しだす。
「カシウスは、いつも優しかったんです。仕事で遅くなっても、必ず私の好きな菓子を買ってきてくれて」
「『君が一番だ』と、耳元で囁いてくれていた。だから、あの現場を見るまで、本当に、一ミリも疑っていませんでした」
「……あなたは悪くない。騙す方が、狡猾だっただけです」
ジェイド様の声は静かだが、深く、私の胸の奥に響いた。
「といっても、僕のところも同じですよ。マリアは外面が良く、社交界では誰もが羨む『理想の妻』を完璧に演じていた」
「……けれど今思えば、彼女が浪費を繰り返し、夜会でカシウス氏と異様に親密に話していたことも、僕は『親友同士の付き合い』だと自分に言い聞かせて、見逃していたのかもしれません。信じることは、時に思考を停止させますから」
二人の間に、重苦しく、けれど不思議と共鳴し合う沈黙が流れる。
信じていたからこそ、裏切られた時の衝撃は、研ぎ澄まされた刃のように鋭い。
親友と、夫。
守るべき、そして慈しむべき二つの絆が、裏では手を組み、自分たちを「愚かな負け犬」と嘲笑っていたのだ。
「……『可愛げがない』とか、『魅力がないから他の女に目移りしたんだ』とか。あんな勝手なことを言われっぱなしで終わったのは、正直……悔しいです。腸が煮えくり返るほどに」
私は無意識に拳を握りしめた。爪が手のひらに食い込み、痛みだけが現実感を繋ぎ止める。
すると
「ロゼッタさん」
ジェイド様が椅子から立ち上がり、私の前まで静かに歩み寄った。
彼は私の震える手の上に、そっと自分の大きく温かな手を重ねた。
「魅力がないなんて、あり得ない。あなたは今日、あの凄惨な現場を目の当たりにしても、泣き叫ぶより先に、驚くことに彼らの服をすべて回収して僕の元へ来た。その凛とした強さと、機転の利く理性を、僕は……心から尊敬します」
ジェイド様の真っ直ぐな瞳が、迷いなく私を射抜く。
「彼らは自分たちを『真実の愛』と呼び、僕たちを『負け犬』と呼びました。ならば、その真実の愛とやらがいかに脆く浅はかで、泥沼のようなものか、思い知らせてやりましょう」
「……!」
「……奪われた屋敷も、踏みにじられた尊厳も、すべて取り戻す。協力してくれますか?」
「もちろん……喜んで」
私は彼の手を、力を込めて握り返した。
一人では、ただの惨めな被害者として終わっていたかもしれない。
けれど、隣に彼がいる。
同じ傷を負い、同じ強さを持ったパートナーがいれば、不可能なことなんて何もない気がした。
「徹底的に、やりましょう。彼らが二度と、あんな汚らわしい口で生意気な言葉を吐けないくらいに」
暗い書斎の中、私たちは二人だけの逆襲の誓いを立てた。
月明かりに照らされたジェイド様の顔は、昼間の爽やかな侯爵の貌とは一変して
獲物をじわじわと追い詰める冷徹な断罪者の貌をしていた。
◆◇◆◇
次の日の昼過ぎ────…
私はジェイド様に呼び出され、再び書斎を訪れた。
広い部屋の大きなデスクには、昨晩のうちに調べさせたのであろう、数々の不穏な書類が整然と並べられている。
「ロゼッタさん。復讐計画についてですが…彼らはとても浮かれていますが、世の中はそこまで甘くないことを、身をもって教えてやるべきだと思いませんか?」
ジェイド様の瞳が、獲物を狙う鷹のように鋭く光る。
「……ええ、もちろんです。あんなに私を、そしてあなたを馬鹿にしたのです。ただ別れてあげるだけなんて、そんな生ぬるい慈悲は持ち合わせておりません」
「話が早くて助かります。まず、カシウス氏は『マリアのためなら、爵位も何もかも捨てて、一般人同士、幸せに暮らしていくつもりだ』と豪語していましたが……」
「彼は、貴族としての資産管理や税の複雑な仕組みを、何一つ分かっていない。彼が握っているのは、穴の開いた財布のようなものです」
「そしてマリアは、贅沢が骨の髄まで染み付いている。実家からの援助が完全に打ち切られれば、一日と持たないでしょう」
ジェイド様は、淡々と、けれど一切の容赦のない復讐計画の詳細を語り始めた。
不倫の証拠を社交界にバラ撒くような、一時の騒ぎで終わる下品な真似はしない。
もっと確実に、外堀から埋め、彼らが一番大切にしている「プライド」と「華やかな生活」を、根底から腐らせて破壊する計画。
その打ち合わせの最中、私はジェイド様の意外な一面を知ることになった。
彼は一見、血も涙もない仕事人に見えて、実はとても細やかな気遣いを忘れない人だった。
「顔色が優れませんね、疲れていませんか?」
「このお茶、お口に合いますか?」
その、裏表のない純粋で優しい言葉が、砂漠のように乾ききっていた私の心に、じんわりと染み込んでいく。
「……ジェイド様。あなたはこれほどまでに誠実で素敵な人なのに。どうしてマリアは、あんな不倫なんて……」
ふいに、抑えきれずに口を突いて出た言葉。
ジェイド様は少しだけ驚いたように目を見開き、やがて困ったような、けれど柔らかな笑みを浮かべた。
「いえ、そんな。僕も、自分の見る目のなさを痛感していますよ。……でも、不運ばかりではありません」
「え?」
「なにせ、そのおかげで、こうしてあなたという、誇り高く強い女性……最高の協力者に出会えたのですから」
その、偽りのない真っ直ぐな視線に射抜かれ、私の胸の鼓動が不意に早くなるのを感じた。
「……ええ。計画は念入りにしましょう。そして必ず、完遂しましょう。二人で、最高の復讐劇を」
私は、彼の差し出した大きな手を、今度は未来を掴み取るように、しっかりと握り返した。