テラーノベル
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ジェイド様との奇妙な共同生活が始まって一週間。
アシュフォード侯爵家での暮らしは
驚くほど快適で、穏やかな時間の流れに身を任せることができた。
けれどここは、単なる休息の場ではない。
同時に、あの二人を地獄の底へ叩き落とすための準備を整える、あまりに静かな戦場でもあった。
柔らかな陽光が窓から差し込み、埃のダンスを照らす午前中。
私はジェイド様の書斎に招かれていた。
壁一面を埋め尽くす重厚な革装丁の本の背表紙と
微かに漂うインクと古い紙の香りが、この空間の厳かさを際立たせている。
デスクの上には、彼が独自のルートで、そして恐るべき執念で集めてきた数々の書類が
まるであの二人の厚顔無恥な罪状を書き連ねたように、山となって積み上げられていた。
私は、その中の一束を指先を震わせながら手に取り、信じられない思いで目を剥いた。
「カシウスの借用書……?」
私の呟きに、デスクの向かい側で書類にペンを走らせていたジェイド様が顔を上げた。
「ええ。彼はギャンブル好きのマリアに唆され、あちこちの貴族や商人から、目も眩むような額の借金を重ねていたようです」
「自分にそれだけの返済能力がないことも忘れてね。……マリアはマリアで、アシュフォード侯爵夫人の看板を最大限に悪用し、ドレスや宝飾品をすべて『ツケ』で買い漁っていました」
ジェイド様は、まるで触れるのも忌々しい汚物を処理するかのような
冷淡な手つきで万年筆を動かし、淀みなく書類を整理していく。
「幸いなことに、僕の母がメイド長として、かねてより不穏な動きのあったマリアを監視していました」
「そのおかげで、これらすべての裏付けが取れました。……そしてロゼッタさん、あなたが住んでいた、あの思い出深い屋敷の所有権についても詳細な調べがついています」
「あのお屋敷は…カシウスの名義になっているはずですが……? マリアも、あの屋敷はカシウスのものだと言って、私たちを追い出しましたし」
「確かに、形式上の名義はカシウス氏の所有です。しかし、帳簿を裏返せば、維持費も税金も、あなたの多額の持参金で賄われていた部分が非常に大きい」
「法的に適切な手続きを踏んで訴えを起こせば、彼が『自分の城だ』と言い張る根拠など、寄せ波に洗われる砂の城のように、すぐに音を立てて崩せますよ」
私は、ジェイド様が冷徹に書き上げた、あの二人の膨大な「負債リスト」を凝視した。
背筋が凍る思いだった。
私と一緒にいた頃から彼は私の差し出したお金と、純粋な献身という名の優しさを
無情に、そして効率的に搾取し続けていたのだ。
そして、それをあろうことかマリアとの贅沢に充てていた。
私を無知な女だと騙し、裏で嘲笑いながら。
……改めて目の前に突きつけられる残酷な現実に、私は震える手でペンを握りしめた。
怒りで視界が赤く染まりそうになる。
「……ジェイド様、一つ、お願いがあります。ただお金を奪い返し、彼らを経済的に追い詰めるだけでは足りません。それでは生ぬるすぎます」
「と、言うと?」
ジェイド様が興味深げに片方の眉を上げた。
「彼らが何より大切にしている、あの虚飾に満ちた『見栄』を、完膚なきまでに叩き潰したいのです。二度と、社交界に顔を出せないほど……その名を口にするだけで人々が顔を背けるほどに」
「それなら、僕もちょうど同じことを考えていたところです…では、来月の園遊会を利用しましょう。王家も参加するあの華やかな舞台こそ、彼らの傲慢を裁くのにふさわしい処刑場です」
復讐の算段を緻密に、一分の隙もなく立てる私たちは、さながら闇に潜む、血の契りを交わした共犯者のよう。
けれど、ふとした瞬間に見せるジェイド様の眼差しの、ふとした柔らかさに触れるたび。
私の心は、復讐心とは別の色で、少しずつ揺れ動き始めていた。
「ロゼッタさん、急に色々と話しすぎて、疲れてしまいましたよね。……少し、庭へ出て外の空気を吸いましょうか」
そう言って彼は椅子から立ち上がると、気遣うように私の肩を
壊れ物を扱うような優しさで抱き寄せ、バルコニーへと連れ出してくれた。
頬を撫でる風は心地よく
アシュフォード家の丹精込めて手入れされた広大な庭園には、季節を象徴する色とりどりの花が咲き乱れている。
「……ありがとうございます。でも、不思議ですね」
「あんなに惨めな思いをして、裏切られて、世界が崩れるような絶望の中にいたはずなのに…今、こうしてジェイド様といると、不思議と心が凪いだように穏やかなんです」
「それは、僕たちが同じ痛みを知っているからかもしれませんね」
ジェイド様は手すりに手をかけ、遠く
地平線の彼方を見つめながら自嘲気味に、どこか寂しげに笑った。
「……実は、マリアとの結婚生活では、一度もこんなふうに穏やかに話を交わしたことはなかったんです」
「夫婦、なのにですか…?」
「ええ、彼女は常に流行や地位、次はどの宝石を手に入れるかという話ばかりで、僕自身の話なんて、最初から聞いてすらいなかった」
「僕はただ、今日あった些細なこと。例えば、庭に咲いた珍しい花のことや、昨日読んだ本の感想を、笑って話せる相手が欲しかっただけなのかもしれません……それは、あまりに贅沢な望みだったのでしょう」
「ジェイド様……」
彼ほどの気品と、誰もが羨む知性を備えたハイスペックな貴族が。
そんな、平民の夫婦でさえ享受できるはずの、ささやかな幸せすら奪われていたなんて。
「…って、すみません。いらぬ自分語りをしてしまって」
気づけば、私は無意識に、彼の仕立ての良いジャケットの袖をぎゅっと掴んでいた。
「……私なら、いくらでも聞きますよ。あなたの好きな本の話でも、今日食べたお菓子の、甘さや味の話でも」
私の心からの言葉に、ジェイド様は一瞬驚いたように目を見開き、やがて氷が解けるように柔らかく目を細めた。
「……ふふ、それは心強いですね」
私たちは、失った偽りの愛の代わりに
もっと深く、言葉にできないほど確固たる絆を築き始めていった。
皮肉なことに、あの二人の卑劣な裏切りこそが、私たちを引き合わせたのだ。
その絆が強まれば強まるほど、あの二人への復讐心は
冷たい月光を浴びて、一点の曇りもなく研ぎ澄まされた刃のように
より鋭く、より冷酷に、彼らの心臓を射抜くために磨き上げられていくのだった。
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