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「ミリエット。もし不思議な夢を見たら、その内容をよく覚えておきなさい。きっと、あなたを助けてくれるはずだから」
幼い頃、母が寝物語にそう語ってくれた言葉どおり、ミリエットは人生の転機にしばしば不思議な夢を見た。
例えば、見知らぬ男性と結婚する夢。
凛々しい雰囲気と、その逞しい体つきに、胸がどきりと跳ねたのをよく覚えている。
ステンドグラスから差し込む光が眩しくて、その顔はよく見えなかった。だが、ミリエットは、それが最愛の夫であるヨハンだと信じて疑っていなかった。
(あれから、もう三年も経ったのね……)
壮麗にそびえ立つ白亜の王宮。その一室。
微かな風に、銀糸のような長い髪がさらさらと揺れる。長い睫毛に縁どられた菫色の瞳を柔らかく細め、ミリエットは窓から外を眺めていた。
青い空の下に広がるのは、ルドロス帝国の首都ルドラニアの街並み。皇帝の伴侶であるミリエットにとって、そこは今、第二の故郷とも言える場所だ。
(あの夢を見たのは、母さんが亡くなってすぐの頃だったわ。毎日が辛くて、悲しくて……このまま死んでしまいたい、ってずっと思ってた)
辺境の村で流れ者の娘として産まれたミリエットは、住民たちに余所者として疎まれ、時に迫害を受けながら生きてきた。
母を失い、天涯孤独の身になっても、助けてくれる人は誰もいない――。
そんな折、ミリエットは偶然にも、辺境に査察に来ていた皇太子のヨハンと出会い、お互いにひと目で恋に落ちたのだ。
やがて彼が皇帝に即位した日、隣には皇后として並び立つミリエットの姿があった。
(ヨハンに出会えて、彼に愛されて……私、なんて幸せなのかしら)
今、ミリエットのお腹の中では彼との子どもが育っている。
すっかり大きくなったお腹を優しく撫で、ミリエットはふわりと微笑んだ。
出産予定日が近いため、最近は皇后としての公務も休み、こうして部屋でのんびりと過ごすのが常だ。
と、不意に部屋の扉が叩かれる。
「ミリエット、調子はどうだい」
現れたのは、最愛の夫であるヨハンだった。豪奢な金の髪は撫でつけられ、深い藍色の瞳は優しくミリエットを見つめている。頑強な体躯に纏う礼服の胸元に飾られているのは、彼が皇帝であることを示す、黄金の徽章だ。
「ええ。大丈夫よ。お腹の赤ちゃんも元気そうに動いてるし」
「それはよかった。君に何かあったらと、僕は公務も手に付かないよ」
「ふふ。ヨハンったら、心配しすぎよ」
皇帝としての執務が忙しいだろうに、ヨハンはこうして一日に何度となく様子を見に来てくれる。傍仕えの侍女から逐次報告を受けているにもかかわらず、だ。
「他でもない君のことなんだから、当然だろう?」
彼の大きな手が、ミリエットの頬へそっと触れた。
――愛されている。その温かさを感じるたびに、ミリエットの胸は幸せでいっぱいになる。
初めての出産は不安だが、彼がいてくれれば、きっと何があっても乗り越えられる。
「ありがとう、ヨハン。……私のことを、こんなにも愛してくれて」
ミリエットが微笑むと、ヨハンは彼女の柔らかな頬にそっとキスをした。
(そう。……私は幸せよ。彼にこんなにも愛されて、大切に守られて)
なのに、どうして。
最近――妙な夢を見るのだろう?
***
どうして、と。問おうとした喉からは、言葉の代わりに大量の鮮血が零れる。
(助けて)
弱々しく伸ばした手の先には、他でもないヨハンの姿。
けれど、彼はただ、冷たく微笑むだけ。
「さようなら、ミリエット」
その言葉が、かろうじて繋いでいたミリエットの命を、無残に断ち切った。
(嫌……嫌……!)
「……嫌ぁぁぁっ!!」
そうしてまた、ミリエットは自らの悲鳴で目を覚ました。
冷たい汗で体中が濡れている。ミリエットは駆けつけた侍女たちに身を清めてもらいながら、真っ青な顔でため息をついた。
ここのところ、毎夜のように夢を見る。
しかも、決まって悪夢だ。よりにもよって、ヨハンがミリエットを殺す夢。
「ミリエット様、やはり皇帝陛下にお伝えした方が……」
「いいえ、黙っていてちょうだい。……ただの夢で、ヨハンに心配をかけたくないもの」
ミリエットの体に障ったら大変だから、と。彼とは今、寝室を分けている。
だからヨハンは、毎夜のように、ミリエットが悪夢にうなされていることを知らない。
「大丈夫。きっと、この子が産まれれば収まるわ」
気づかわしげな侍女を安心させるように、ミリエットは微笑む。
悪夢ばかり見るのは、きっと、初めての出産を控え、不安を抱いているせいだろう。
ヨハンに相談すれば、彼はきっと一緒に解決策を考えてくれる。けれど、ただでさえ忙しい彼の負担を、これ以上増やしたくなかった。
ルドロス帝国は今、近隣諸国と緊張状態にある。皇帝であるヨハンは、より強固な統治体制を整えるため、深夜まで重臣たちと執務室に籠っているのが常だった。
ミリエットの前では、彼はいつも笑顔を浮かべ、優しい態度を崩すことはない。だが、本当はどれほどの重圧に耐えていることか。
(私も耐えてみせる。だから……無事に産まれてきてね、私の赤ちゃん)
そっと腹部を撫でると、そこには確かな命の拍動が感じられた。
***
ミリエットが産気づいたのは、その一週間後のことだった。
宮殿付きの優れた医師と産婆に見守られながら、ミリエットは女児を産んだ。
新たなる皇女の誕生に、その場に立ち会ったすべての人々が祝福の言葉を口にした。
「……私の、赤ちゃん」
ぐったりと横たわったミリエットの横に、産声を上げる赤子が寝かされる。
枕元に座るヨハンは、切れ長の瞳の端に涙を浮かべ、ミリエットを見つめていたが――不意に目元を拭い、周囲を見やった。
「すまない。少し二人だけ……いや、家族だけにしてくれないか」
皇帝の命に従い、集まっていた医師や侍女たちが退室する。
やがて、室内にはミリエットとヨハン、そして穏やかな寝息を立てる赤子の三人だけが残された。
「ミリエット。本当にありがとう、無事に、僕の子どもを産んでくれて」
「私たち、親になったのね。なんだか、まだ実感が湧かないわ」
「それは僕もだよ。……ああ、そうだ。医師から薬湯を渡されていたんだ。少し苦いかもしれないけれど、飲んでくれるかい?」
「ええ、もちろん。この子のためにも、早く元気にならないとね」
ヨハンからゴブレットを受け取ると、ミリエットは一息に飲み干した。
「……本当。すごく苦い」
でも、これくらいなら、とミリエットは微笑む。
――異変が起こったのは、それから間もなくのことだった。
ざわ、と鳥肌が立った。
吐き気がする。心臓が急速に鼓動を速めるのがわかった。
「ヨハン、私、なんだか……」
その言葉を言い終える間もなく、フッと体に力が入らなくなった。
(息が、できない……?)
苦しい。苦しくてたまらない。
助けて。言葉の代わりに、ミリエットの喉からはごぼりと血が零れる。
(ヨハン……助けて、ヨハン……!)
縋るように見つめた先――頼りの彼は、何故か、微動だにしていなかった。
それどころか、感情の抜け落ちたような表情で、ミリエットを見つめている。
――まるで、ついこの間まで毎晩見ていた悪夢のように。
「……どう、して」
ミリエットがかろうじてそれだけを口にすると、ヨハンは今までに見たこともないような冷たい笑みを浮かべた。
「ありがとう、ミリエット。君はこうして、無事に女の子を産んでくれた。……嬉しいよ。これで、僕の望みはすべて叶うだろう」
ミリエットの横に寝かされていた赤子を、ヨハンは大切そうに抱き上げる。
「だから、さようなら。君の役割は、ここで終わりだ」
――これは、本当に現実なのだろうか?
ミリエットは呆然と、赤子を抱いて離れていくヨハンを見つめるしかなかった。
「どうして……こんな……」
「どうせ最後だ。全部教えてあげるよ」
苦痛に歪むミリエットの頬を、ヨハンはいつものように優しい手つきで撫でた。その薬指には、かつて婚礼の際に交わした指輪が鈍く光っている。
「僕たちの出会いは偶然じゃない。ずっと、君を探していたんだ。伝説の聖女の血を引く、唯一の女性を、ね」
聖女。その言い伝えは、ミリエットも知っていた。
神話は語る。この大陸を作り出した神々の一人であるセレネは、人間の運命を憂い、一人の女性を地上へ遣わしたという。
「でも、あれは……」
「ただのおとぎ話じゃない。君はずっと、僕とルドロス帝国のために、聖女の力を役立ててくれていたのさ。だが、それも今日で終わりだ」
ヨハンは、冷酷な笑みを崩すことなく、腕の中の赤子を見下ろした。
「君を殺せば、聖女の力はこの子に継承される。これからは、この子が帝国を守ってくれることだろう。……僕の意のままに、ね」
ヨハンの言葉を聞いているうちに、ミリエットの意識は急速に遠のいていく。死が近付いているのだ。
(待って……)
伸ばした手は、力なく寝台に落ちて。吐息の代わりに零れる鮮血が、シーツを真っ赤に染めていく。
ヨハンと、産まれた子どもと三人、幸せに暮らせると思っていたのに。
――愛していたのに。
「さようなら、ミリエット」
何度となく、夢の中で聞いた言葉。それと同時に、ミリエットの世界は闇に閉ざされた。
ただ、哀しかった。自分の人生はなんだったのだろう、と。
愛も、幸福も。すべて嘘だったなんて。
(嫌……何もかもを失って、ただ死ぬなんて、嫌……!)
最期に、ミリエットがそう思った、そのとき。
――愛し児よ。あなたに、もう一度人生をあげましょう。
唐突に、女性の声が聞こえた。
え? と思う間もなく、体が――意識が、急速に逆巻いていく。
***
気付けば、ミリエットは色とりどりの光が差し込む教会の中に立っていた。
これは――あの日、母を失くしてすぐに見た、結婚式の夢だ。
「新婦ミリエットよ。汝、この者と永遠の愛を誓いますか」
(でも……どうして、今さらこんな夢を見るの?)
ヨハンは――運命だと思っていた人は、躊躇うことなくミリエットの命を奪ったのに。
そんな気持ちとは裏腹に、夢の中のミリエットはこくりと頷く。
すると、目の前に立つ礼服姿の青年が、彼女の顔を覆うヴェールをそっと持ち上げた。
(……えっ?)
ミリエットは目を疑った。
目の前に立つ男性は、浅黒い肌に、短い漆黒の髪。
金髪碧眼のヨハンとは似ても似つかぬ面立ちだったのだ。
(どういうこと……?)
夢の中で出会った男性こそが、運命の相手だと思っていた。
そして、それは他ならぬヨハンだと信じていたのに。
(夢の内容が変わった? ……それとも、まさか)
最初から、ミリエットが間違っていたのだろうか?
「……っ!」
刹那、ミリエットは再び目を覚ました。
視界に映る景色は、見慣れた王宮の自室ではなかった。ぼろぼろで、雨漏りの跡があちこちにある、木でできた天井だ。
「ここは……? いいえ、それよりも」
自分は、死んだはず――ヨハンに毒を飲まされて、殺されたはずなのに。
ミリエットはおそるおそる寝台から体を起こした。すると、枕元に置かれた鏡が視界に入る。
そこに映る自らの顔に、ミリエットは言葉を失った。
(嘘……)
鏡の中のミリエットは、若返っていた。
そう、まるで――ヨハンと出会う前の、十七歳の頃のように。
(一話・終わり)