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慌ただしく身を起こした後、ミリエットは家の中を隅々まで見回り――再び、寝台の元へ戻ってきた。
枕元の鏡を持ち上げ、もう一度、自分の顔を観察する。
「……やっぱり、ここは三年前の私の家だわ」
十七歳の頃の自分を怪訝そうに見つめ、ミリエットはそう呟いた。
狭くて古い木造の家。天井には雨漏りの跡がいくつも滲み、窓からは隙間風が吹き込む。でも、思い出がたくさん残る場所。
(時間が巻き戻るなんて……これは夢? それとも、現実?)
試しに頬を思いっきりつねってみる。
「……どうしよう。痛い」
ずきずきする頬を押さえ、ミリエットは呆然と呟いた。
(まだ信じられないけれど……本当に時間が巻き戻ったの? でも、どうして)
脳裏をよぎったのは、ヨハンの言葉だった。
――僕たちの出会いは偶然じゃない。ずっと、君を探していたんだ。伝説の聖女の血を引く、唯一の女性を、ね。
(まさか……私が、聖女の血を引いているから?)
途方もない話すぎて、にわかには信じられない。
しかし、それが本当だとしたら、母もまた聖女の血を引いているはず。
(もしかしたら、この家の中に手がかりがあるかも……)
ミリエットは鏡を置くと、両親の部屋へと移動する。
そこには、服や小物といった母の遺品が手つかずで残っていた。
(ああ、やっぱり)
懐かしさと悲しみが胸をつく。
十七歳の頃のミリエットは、母を亡くした悲しみから、遺品を直視することができなかった。遺品に目を通すこともなく処分し、過去を振り切るようヨハンの元へ行ったのだった。
綺麗に整頓された机の上には、使い込まれた革表紙の手帳が置かれている。
「これは……母さんが愛用してたものね」
そっと手に取り、ぱらぱらとページをめくる。
流れ者だった母は、薬師をして生計を立てていた。中に書かれていることは薬草の調合や日々の日誌など、仕事に関する内容がほとんどだ。
「やっぱり、何も書いてな……えっ?」
最後の方のページに、突然『ミリエットへ』と書かれた箇所を見つけ、息を呑む。
母の文字は微かに震え、かすれていた。恐らく、亡くなる前に患った流行り病のためだろう。
ミリエットは、おそるおそるページを読み進めていく。
「……ミリエットへ。これを読んでいる頃、私はもう、この世にはいないでしょう」
――あなたには、何も知らないまま、自由に生きてほしかった。
けれど、私が死ねば、この力はあなたに受け継がれる。
だから、私が知る限りのことを、ここに記しておきます。
ミリエットは手帳の文字を指でなぞっていく。
と――その指先が、ある記述の部分で止まった。
「私たちは、伝説の聖女の血を引く末裔です。その力は……母が亡くなったとき、娘に引き継がれます……」
ミリエットは、菫色の瞳を驚きに見開いた。ヨハンの言葉は本当だったのだ。
――本当なら、直接あなたに教えるべきだったのはわかっています。
それができなかったのは、ひとえに私の弱さです。
「だからこうして、夢で、自分の死期を知るまで……行動を、起こせなかっ……」
言葉に詰まったのは、両目から零れる涙のせいだった。
――ごめんなさい、ミリエット。
どうか、最後まであなたを守れない母を許してちょうだい。
「……謝るのは、私の方よ」
手帳を抱きしめ、ミリエットは静かに泣いていた。
(ごめんなさい、母さん……ごめんなさい……)
もしも、母が亡くなったとき、きちんと向き合えていたら。ヨハンに騙され、あんな風に殺されることはなかったかもしれない。
なのに、ミリエットの弱さが、母の想いを無駄にしてしまった。
どうしようもない後悔が胸を刺し、涙はいつまでも溢れて止まらなかった。
* * *
――どれほどそうしていただろう。
窓の外から傾き始めた日の光が差し込む頃、ミリエットはのろのろと立ち上がった。
「……いつまでも、泣いているわけにはいかない」
頬に残る涙の跡を、ぐっと拭う。
かつての自分が知ることのなかった母の想い。
それを受け取った以上、無駄にはできない。
(もし、時間が巻き戻った理由が、聖女の力だというのなら)
もう二度と、同じことは繰り返さない。
そして――。
「私はヨハンに……そして、ルドロス帝国に復讐する」
胸の奥に、炎が灯るような感覚。
それは怒りだった。
手帳には、母が流れ者になった経緯も書いてあった。
歴代の聖女は、その力を利用されないため、周囲の国家のどこにも属さず、中立を保ち続けていた。
母の故郷である聖地セレネスは、女神セレネの信者が集い、歴代の聖女を守り続けていた不可侵の土地だったのだという。
だが、ヨハンの父である現皇帝は、聖女の力を狙い、聖地を攻め滅ぼした――。
母は聖女の末裔として信者たちに命を賭して守られ、帝国に捕まることなく逃げ延びたのだという。
「私は……私たちは、道具じゃない。人の命を何だと思っているの」
母の故郷を滅ぼしたこと。ミリエットへ偽りの愛を囁き、見せかけの幸せの絶頂を味わわせ――その命を容赦なく奪ったこと。
あまつさえ、命がけで産み落とした赤子までも利用しようとしていたこと。
何ひとつ、許さない。許すわけにはいかない。
「人の命を奪い、弄ぶことでしか大きくなれない国など、滅びてしまえばいい……!」
そのためにも、まずは力が必要だ。奪われた分だけ、奪い返せるように。
ミリエットは、母の手帳をさらに読み進めていく。
――そこには、聖女の力について、母が知る全てのことが書き記されていた。
聖女は、運命の女神の祝福を受けた存在。
その力は過去や未来を見通し、運命を変える。
――ミリエット。あなたは何度か、不思議な夢を見たことがあるでしょう?
それは、あなたの持つ聖女の力の素質が見せたものよ。
「……ええ、母さん。さっき、こうして目覚める前も、夢を見ていたわ」
母の残した言葉に、微かに笑って頷く。
見知らぬ男性と結婚する夢。きっとあれこそが、聖女の力が見せたものだ。
母が亡くなった今、その力は完全なかたちでミリエットへと受け継がれている。
「……自らの意志でその力を使うためには、聖女に代々受け継がれている指輪を使う必要がある。まずは、指輪を嵌めて眠ること」
その夜の夢は、かならずあなたを望む方向へと導いてくれる。
母の言葉に従い、ミリエットは机の上に乗っていた小物入れを開ける。
そこには、古びた銀の指輪が入っていた。
ミリエットはそっと指輪を手に取ると、薬指に嵌める。まるで最初からそう作られていたかのようにぴったりの大きさだ。
(本当に、これで運命を変えられるのかしら……)
まだ、全てを信じることはできない。
けれど、今のミリエットにはこの力以外、頼れるものは何もない。
(母さん……どうか、力を貸してちょうだい)
ミリエットは指輪を抱き込むように胸に手を当て、真摯に祈るのだった。
* * *
その日の夜。緊張しながら眠りに落ちたミリエットは、無事に夢を見ることができた。
祭りの夢だ。年に一度、村中が賑やかになる、収穫のお祝い。
(……ああ、懐かしいわ。私、このお祭りで、査察に来ていたヨハンに出会ったの)
空へ浮かぶようにして、ミリエットは村を見下ろしていた。
きっと、これが聖女の力によるものなのだろう。
自分の体を確認すると、透けたように後ろの景色が見えていた。また、ある程度なら、村の中を移動することもできるようだ。
晴天の空の下、立ち並ぶ家は鮮やかに飾り付けられ、人々の顔には笑顔が浮かぶ。
だが、夢の中のミリエットは、村の中を必死に逃げ回っていた。
一人ではない。外套を纏った大柄な人物も一緒だ。フードを深々と被っていて、相手の顔は見えない。
「いたぞ!!」
やがて、夢の中のミリエットたちを挟むように、鋭い声が響いた。
(あれは……帝国の兵士。まさか、ヨハンの部下?)
「あの女を絶対に逃がすな!」
「男は殺してもかまわん!」
何人もの兵士たちがミリエットたちへ殺到する。
すると、怯えるミリエットを背中に庇うようにして、外套を纏う人物が懐の剣を抜いた。フードが外れ、その顔が露わになる。
(あ……!)
その顔には見覚えがあった。
ヨハンに殺された後に見た、結婚式の夢で、ミリエットと誓いの言葉を交わした青年だったのだ。
「下がっていろ。ここは俺が何とかする」
「でも……!」
夢の中のミリエットは必死に制止する。だが、彼はかまわず剣を手に兵士たちへ向かっていった。
青年は兵士たちを次々と斬り伏せていく。その強さは凄まじいものだった。
だが、しょせんは多勢に無勢。長くは持たないだろう。
(でも、これは聖女の力で見ている夢。……未来は、変えられるはず)
死をきっかけに三年の時を遡り、母の手帳に記された遺言と出会えたように。
(そのためにも、まずはあの男性を見つけて、それから……)
ミリエットはさらなる情報を得ようと、村の中を移動しようと試みた。
風が強い日のようだ。村の中心にある見張り台に飾られた布が、大きくはためいている。今にも外れてしまいそうだ。
(何か、逃げるための手がかりになりそうなものは……)
だが、その時。周囲の景色が急速にかすみ始めて――。
「あ……」
次にミリエットの視界に映ったものは、古い木の天井だった。
「目が、覚めたのね……」
残念そうに呟いて、ミリエットは体を起こす。
すぐさま枕元に置いた手帳を開く。
――聖女の力は徐々に花開くもの。最初はささやかな夢を見ることから始まります。
幾度もその経験を重ねていくことで、力の精度は上がっていく。
(今は、これが限界ってことね)
だが、落胆している暇はない。夢を見るチャンスはまだあるはずだ。
ひとまずは、今見た夢をどう活かすか。
「お祭りがあったのは、母さんが亡くなってから少し経った頃だから……。まずは、今日が何日なのか、正確な日付を知るところからね」
ヨハンに殺された日から約三年前に一度戻ってきたとはいえ、今がいつなのか、ミリエットははっきりと認識していない。
なにしろ昨日はあまりにも多くのことがありすぎて、そこまで気が回らなかった。
「私、頑張るわ。母さん、どうか空の上から見守っていてね」
立ち上がったミリエットは背筋をぴんと伸ばし、朝の身支度を始めるのだった。
その時、開かれた窓から風が吹き込み――ミリエットの背後で、母の手帳が風にめくられる。
開かれたページには、こう書かれていた。
――けれど、気を付けて。
指輪を他人に奪われたら、聖女の力はその相手のために利用されることになる。
* * *
身支度を整えたミリエットは、準備も兼ねて外出することにした。
家の外に出たところで、ぐるりと周囲を見回す。
(村はまだ飾りつけの最中……。祭りの日は近い、ということね)
祭りが始まれば、ヨハンがこの村を訪れる。ぐずぐずしている暇はない。
そのとき、隣家の女性が外に出てくるのが見えた。
「おはようございます、おばさん」
ミリエットは笑顔を浮かべ、そう声をかける。
だが、返ってきたのは挨拶でも、笑顔でもなく――蔑むような視線。
「……あんた、いつまでそこに居座るつもりなんだい」
「えっ?」
「この村は貧しい。仕事もできないあんたを養う余裕はないんだよ」
(……ああ、そうだった。すっかり忘れていたわ)
住民だった父も、薬師をしていた母も亡くなった今、ミリエットはただの厄介者。
かつては、つらく当たられて泣いてばかりだった。でも。
「言われなくても、もうすぐ出ていきます。どうぞご心配なく」
ミリエットは真正面から女性を見つめ返し、にっこりと笑った。
一度殺されたことに比べれば、こんな悪意、大したことはない。
「あ、あ、あんた、よくも生意気な口を……!」
女性は怒りに顔を赤らめると、さっと手を振り上げた。
叩かれる――!
ミリエットは咄嗟に目を閉じる。が、その頬に痛みが走ることはなかった。
「ご婦人、やめておきなさい」
代わりに聞こえてきたのは、低い声。
ミリエットが目を開けると、外套を着た人物が、女性が振り上げた手を掴んでいた。
(あっ……!)
その声には覚えがある。そして、少しくすんだ色の外套と、目深に被ったフードにも。
そう。――夢に出てきた、あの青年だった。
(2話・終わり)