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第1話 香が揺れてる
担当教官が変わった。
それだけのことだった。
訓練時間も変わらない。起床時刻も、食事も、生活基礎訓練も変わらない。
俺は昨日までと同じように起き、同じように衣を整え、決められた時間に訓練室へ向かった。
違うのは、扉の向こうにいる男だけだった。
「嶺刃だな」
低い声だった。
男は大柄だった。
照遠も決して華奢な男ではない。だが、目の前の男は明らかに種類が違う。厚い肩。太い腕。立っているだけで床へ重みが落ちるような体格。
こちらを見る目にも、妙な柔らかさがない。
「今日から俺がお前を見る」
「……分かった」
「返事が小さい」
反射的に顔を上げた。
「分かった!」
「よし」
それだけだった。
男は記録板を開く前に、板の端を二度、指の腹で軽く叩いた。癖らしい。何かを言う前、いつもそうする。
「昨日までの記録は読んだ。生活基礎、問題なし。公共区画判断、問題なし。退避申告、問題なし。接触境界も良好。発情状態での自己制御についても――」
一度、こちらを見る。
「よく止まったな」
胸の奥が、わずかに軋んだ。
「……ああ」
「ならいい」
それ以上、聞かなかった。
誰に触れようとしたのか。
なぜ担当教官が変わったのか。
何があったのか。
何一つ。
男は次の頁をめくった。
「今日は卒業前の実地適応を見る。ついてこい」
「訓練室じゃないのか」
「外だ」
男はさっさと歩き始めた。
俺はその背中を追った。
照遠なら、歩きながら今日の訓練内容を説明しただろう。
何を見るのか。
何ができればいいのか。
困った時はどうすればいいのか。
あの男は、そういうことを一つずつ言葉にする。
目の前の教官は違った。
「教官」
「なんだ」
「どこへ行く」
「着けば分かる」
「先に教えてくれてもいいだろう」
「着けば分かることを二度説明させるな」
「…………」
ずいぶん違う。
だが、不思議と嫌ではなかった。
廊下をいくつか抜け、連絡路へ入る。
見慣れた人型化準備区域から少しずつ景色が変わっていった。
空気の匂いも違う。
湿った土。
水。
陽に温められた葉。
やがて教官が、一つの扉の前で止まった。
札が掛かっている。
人外由来魂支援棟。
植物魂日照庭。
「……植物?」
「ああ」
「俺が?」
「ああ」
思わず教官を見る。
「何をする」
「知らん」
「知らないのか」
「俺は植物魂の担当じゃない」
「なら、なぜ俺を連れてきた」
教官はそこで初めて、真正面から俺を見た。
「お前の技能は落ちてない」
「…………」
「判断も悪くない。昨日までの記録を見ても、卒業前としてはかなり出来がいい」
なら。
なぜ。
そう尋ねる前に、男が続けた。
「だが、香が揺れてる」
言葉が止まった。
「……俺は普通だ」
「知ってる」
即答だった。
「訓練もできる」
「知ってる」
「なら――」
「できることと、安定してることは別だ」
低い声が、まっすぐ落ちてきた。
責める響きはなかった。
哀れむ響きもない。
ただ、見たものをそのまま言っているだけだった。
「理由は聞かないのか」
「言いたいのか?」
答えられなかった。
「なら聞かん」
「…………」
「原因を聞いて香が戻るなら聞く。そうじゃないなら、今のお前に合う仕事を探す」
教官が扉を開いた。
柔らかな陽が差し込んでくる。
草と水香の混じった風が、廊下の冷たい空気を押し流していった。
「行ってこい」
「一緒に来ないのか」
「俺が働くのか?」
「俺の教官だろう」
「だから、お前をここまで連れてきた」
教官は顎で日照庭を示した。
「お前はもう、教官の横で札を出せるか確認する段階じゃない」
広い庭の向こうで、植物魂支援の職員がこちらに気づいた。
「卒業したら、自分で仕事場へ行く。分からなきゃ聞く。失敗しそうなら止まる。必要なら助けを呼ぶ。仕事が終わったら自分で帰ってくる」
背中を軽く叩かれた。
「今日はそれをやれ」
強い手だった。
だが、押されたわけではない。
俺は自分の足で、日照庭へ入った。
コメント
1件
うわ、めっちゃ空気感のある話だった…!新任教官の「知らん」「着けば分かる」って塩対応なのに、ちゃんと主人公の香の揺れを見抜いてて、その距離感がめちゃくちゃ良かった。『できることと安定してることは別』って台詞、刺さるわ…。卒業前の緊張と、新しい環境で一歩踏み出す主人公の成長が丁寧に描かれてて、続き読みたい🔥
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低気圧
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