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百子はあまり実家のことを話したくなかったのだが、陽翔に押し切られ、鮭のムニエルと温野菜をつつきながら観念して白状することにした。百子には兄がおり、両親は兄ばかり可愛がってあまり百子に関心を向けないことや、両親とはそれほど仲が良いわけでもないことなども話す羽目になり、晩御飯の味を大いに損なうことになっている。もっとも、今回の帰省は別の意味で気が重いのだが。
「実家に帰ったら同棲のことも言わないと駄目で……それが一番辛いかも。今年中に婚約の予定だったから、それも無しになったって言いにくい……」
急速に食べるペースを遅くした百子を見て、陽翔はいたたまれない気持ちになった。同時に百子が婚約までしていないことに胸を撫で下ろす。
「確かにその報告はしたくないな……でもそれだけじゃないだろ。他に何が心配なんだ」
(……東雲くんって時々すごく鋭いな)
百子は陽翔の勘の良さにどきりとする。彼が鋭いのか、それとも百子が分かりやすいのかは不明だが。
「親に同棲を反対されてたから、ほら見たことかって言われそうだもん……」
陽翔は思わず箸を止め、リビングに静寂の帳が降りた。陽翔がここに住んでもいいと言ったのに、百子が頑なに拒む理由が何となく理解できたからだ。
「……同棲が悪いわけじゃないだろ。明らかに向こうが悪いのに、親御さんがガミガミ言うとは思えないんだが。それともあれか。同棲したら結婚が遠のくとかそんなことを言われて反対されてたのか?」
百子は観念したように頷く。まさか自分の懸念をここまで看破されるとは思わなかった。何だか自分の脳を直接陽翔に覗き見された気分である。
「……何で分かったのよ。まるでうちの家での会話を見ていたみたい」
陽翔は一瞬だけ目を丸くしたが、微笑みながら首を振る。
「ただの勘だ。まあお前は割と表情に出やすいし、三十歳手前の娘には親御さんも言いそうな台詞だなって思っただけだ。結婚とかそういうのに割と敏感だろうし」
いちいち自分の内心を見透かされて面白くない百子はちらりと陽翔を睨むが、彼は素知らぬ顔で味噌汁を啜っている。何だかそれを見て無性に腹が立った百子は、呪詛のように低く言う。
「……結婚はしばらく考えたくないわ。というかしたくもない。もう裏切られるのは嫌なの! それならずっと一人がいいわ! どん底に突き落とされるのはもうたくさんよ!」
彼女の怒気をはらんだその声で、陽翔はしまったと思ったが遅かった。百子はわっと泣き出したと思うと、食事中にも関わらずリビングを後にしたのだ。陽翔は彼女を追いかけるか一瞬だけ悩んだが、首を振って額に手を当てた。
(泣かせちまった……。まだ百子は辛いのに、あいつの傷を抉ったのは俺だ。悪いことをした……)
陽翔はのろのろと自分の食器と半分くらいしか手を付けていない彼女の夕食を下げ、ラップを掛ける。
ラップを切る音だけがリビングを虚しく引っ掻いた。
「うう……っ、ひっく……」
百子はベッドに突っ伏して声を押し殺して涙する。何分そうしていたかは不明だが、百子は結婚と聞いて、何故か急速に浮気現場のあの忌まわしい光景がフラッシュバックしてしまったのだ。彼の発言は単純に事実を述べていただけだというのに、百子は瞬時に目の前が真っ赤になってしまい、陽翔に自分の怒りをぶちまけてしまった。
(これじゃ八つ当たりじゃないの……東雲くんは何も悪くないのに)
陽翔が悪いわけではない。悪いのは元彼であって、その怒りは元彼にぶつけるべきものである。彼に百子を傷つける意志が無いのは、今までの行動から火を見るよりも明らかだというのに、百子は沸騰したその気持ちを彼にぶつけてしまい、激しい自責の念に駆られた。
(ちゃんと謝らなきゃ)
百子はベッドサイドにあるティッシュで鼻をかみ、目をこすってからのろのろと部屋を出る。謝罪してからしっかりと自分が何故陽翔に八つ当たりしたのかを説明しよう。そしてその後は二人でハーブティーでも飲もう。美咲の言ってた、本音は言わないと伝わらないよという言葉に背中を押され、百子はソファーに座っている陽翔に声を掛けようと近づく。しかしその前に陽翔が立ち上がって百子を真っ直ぐに見据えた。
「さっきはごめんなさい」
「さっきはすまん」
そして見事に二人の声が重なる。二人とも鏡で写したかのようにぽかんとした表情を浮かべ、やはり二人同時に目線をそらした。妙なところで気が合うものである。
「百子、話があるんだが……」
「うん。私も東雲くんに伝えないとだめなことがあるの。ハーブティー入れてきてもいい?」
陽翔は頷いたが、給湯器からお風呂が湧いたことを知らせる音声が流れてしまい、頭をかいてため息をついた。
「先に風呂にするか。冷めても困るしな。今日は百子が最初の日だったよな」
百子は一瞬だけ迷ったが、リラックスしてからの方が良さげだと感じて頷く。しかし次の彼の台詞にさっと顔を紅潮させる羽目になった。
「何なら一緒に風呂入るか? そうしたら話す時間も伸びるぞ?」
あからさまにニヤニヤとした陽翔に、百子はじろりと睨みを効かせる。
「絶対話だけで済まないと思うんだけど。真面目にしてよね」
彼女から悲愴な表情がすっかり消えたことを見て取り、陽翔は口を曲げて微笑んだ。
「良かった、いつもの百子だな。冗談だって。それとも本当に一緒に入るつもりだったのか?」
「ち、違うわよ! 東雲くんの色ボケ!」
百子はそう言い捨ててくるりと背を向け、足早に脱衣場へと向かう。脱衣場のドアが閉まったのを確認して、陽翔は声を立てて笑い始めた。