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local99
#大人の恋愛
瑠璃マリコ
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君だけは、守る。
その夜から、私は、守られるに値する働きをしようと決めた。言えない言葉の代わりに、せめて。
侯爵様の書面に、宇佐美先生からの返事が届いたのは、三日後だった。
「御申し越しの診療録、来る十一日、上野の診療会の会場にてお渡し申し上ぐべく候」
上等な洋紙に、ペンの字。行の終わりに近づくほど、字がわずかに右へ傾いていく。
侯爵様は、それを黙って私に見せ、黙って引き出しにしまった。
*
京橋の『婦人の窓』の編集部を訪ねるのは、夜会の晩以来だった。
階段を上がると、丸顔の大庭さんが、赤鉛筆を耳から落としそうになった。
「いやはや。侯爵夫人に、三輪さんなんて名前で校正させてたとはねえ。社主にえらく絞られましたよ」
「申し訳ございませんでした」
「いやいや。おかげで、うちの誌面から欠けた『道』が消えた。それで帳消しだ」
大庭さんは笑って、一階の印刷所へ私を連れていった。
インクで黒い前垂れの親方は、私の差し出した紙袋を、電灯の下で裏返した。
宇佐美医院の薬袋だった。一度目の診察の帰りに、頭痛の粉薬を入れてもらったものだ。表に、医院の名が初号の明朝で大きく刷られている。
「医院の帳票を刷った店を、探しております」
親方は、老眼鏡をずらして、「宇」の字に顔を近づけた。
「……この宀の、左の点が、やけに立ってやがる」
すぐに、顔を上げた。
「本郷の弥生堂だ。あそこの初号は、この癖がある。帝大の前で、医者の帳票と学生の論文の清書を一手に引き受けてる店でさ」
*
診療会の前の日、本郷へ向かった。
弥生堂は、帝大の赤門から少し下った、間口二間の古い店だった。
硝子戸の中で、白髪の老主人が、手フートの刷り機の前に座っていた。
宇佐美医院の名を出すと、主人は棚から分厚い帳面を下ろした。受注の控えと、刷り見本を一枚ずつ貼りつけた帳面。父の店の見本帳と、同じ作りだった。
「宇佐美先生のところなら、ほれ」
指が、黄ばんだ頁を押さえた。
「大正九年三月 宇佐美医院 カルテ用紙 二千枚 初刷」
その横に、刷り見本が一枚、糊で貼られていた。
上の端に「宇佐美医院」。氏名、年齢、住所の欄。縦の細い罫。
そして、右下の欄外に、九・三。
「初刷、というのは」
「うちで版を起こしたのが、そのときが初めてってことです。それまでは、先生、文房具屋の出来合いの罫紙をお使いでしたよ。開業のときからずっと」
主人は、目をしばしばさせた。
「急に、医院の名入りのを二千枚、それも急ぎでって。羽振りがよくなったんだろうと、思ったもんでしたがね」
この帳面を、一日だけ貸してほしい。
そう頼むと、主人は渋い顔になった。帳面は、店の命だ。父も、誰にも貸さなかった。
私は、右手を差し出した。中指の第一関節の、黒い染みを見せた。
「神田の、志摩活版所の娘です」
主人の目が、私の指の上で止まった。
「……志摩さんの。あの、罫の組み方のきれいな店の」
主人は、長いあいだ黙っていた。それから、帳面の頁の端を、指でそっと撫でた。
「火事は、お気の毒でした。……明日の晩までに、返してくだせえよ」
*
十一月十一日の朝、上野へ向かう自動車の中で、大奥様が言った。
「今日は、婦人会の皆様の前です」
扇の先が、私の膝を指した。
「久遠寺の嫁らしく、黙って座っていなさい。余計な口は、きかぬように」
「……はい、大奥様」
私の膝の上の風呂敷には、弥生堂の帳面が包んである。大奥様は、それが何かを知らない。今日、何が起きるのかも。
隣で、侯爵様が窓の外を見たまま言った。
「母上。今日は、妻の口を借ります」
大奥様の扇が、ぱちりと閉じた。
「何のお話です」
侯爵様は答えなかった。前の座席で、真柴さんが、膝の上の風呂敷包みを抱え直した。
座席の陰で、黒い手袋の指が、私の風呂敷の結び目に、そっと触れて離れた。大丈夫だ、と言われた気がした。
上野の公会堂は、朝から人で溢れていた。
一階の広間に衝立が並び、白衣の医者たちが、下町から来た人々を順に診ていく。乳飲み子を抱いたおかみさん。咳きこむ年寄り。裸足の子ども。
二階の講堂には、紋付の奥様方が、ずらりと椅子を並べていた。華族婦人会の慈善診療会。世話役の大奥様は、最前列の端で、白檀の扇を膝に置いている。
侯爵様と私は、そのすぐ隣の、最前列の真ん中に通された。
真柴さんは、講堂の後ろの壁際に、風呂敷包みを抱えて控えていた。
壇上に、宇佐美先生が上がった。
今日は白衣の上に、臙脂の蝶ネクタイ。婦人会の会長の老公爵夫人から、表彰状を受け取る。拍手が起きた。
先生は、壇の中央で一礼し、口髭を指で撫でた。
「医者の務めとは、病を治すことのみにあらず」
よく通る、気障な声だった。
「ありのままを、正しく記すこと。それこそが、医の礎にございます」
奥様方が、うっとりと頷いた。
拍手が鳴りやむ前に、最前列の椅子が一つ、音を立てて動いた。
侯爵様が、立ち上がっていた。
黒の三つ揃いに、黒い革の手袋。講堂の空気が、すうっと冷えた。妻殺しの侯爵。誰かが、扇の陰で囁いた。
「宇佐美君」
侯爵様の声は、大きくはなかった。けれど、講堂の隅々まで届いた。
「頼んでおいたものを、ここで受け取りたい」
宇佐美先生の顔から、血の気が引いた。
けれど、何百という奥様方の目が、自分を見ている。表彰状を手にしたまま、断ることはできなかった。
先生は、壇の脇の鞄から、二枚の紙を挟んだ紙挟みを取り出した。
侯爵様は、それを受け取ると、振り返りもせずに、私に渡した。
「妻に見せる。……壇へ」
*
壇に上がると、足が震えた。
紋付の奥様方。最前列の大奥様の、能面のような白い顔。後ろの壁際の、真柴さんの銀縁の眼鏡。
侯爵様が、私のすぐ後ろに立った。黒い手袋の手が、ほんの一瞬、私の背中に触れた。
「皆様は、藤堂家の夜会で、妻の目をご覧になったはずだ」
侯爵様は、講堂に向かって言った。
「妻の目は、確かだ。私が保証する」
私は、紙挟みを開いた。
一月十日から二十日まで。あの日、逆さまに読んだ十日分の記録が、今度は正しい向きで、そこにあった。
「これは、私の夫の最初の妻、小夜子様のカルテでございます。大正九年の一月に、宇佐美先生がお書きになったものです」
私は、カルテの右下を指さした。
「ここに、小さな数字が刷られております。九・三。印刷屋が、この紙を刷った年と月を入れたものです」
前のほうの奥様方が、身を乗り出した。
私は、風呂敷から弥生堂の帳面を出し、カルテの横に開いて並べた。
「こちらは、この紙を刷った本郷の印刷所の帳面です。大正九年三月、宇佐美医院、カルテ用紙、二千枚、初刷。刷り見本にも、同じ九・三。それまで、この医院に名入りの用紙はございませんでした」
講堂が、しんとなった。
「一月の記録が、三月に初めて刷られた紙に書かれております」
ざわめきが、波のように広がった。
「それは」
宇佐美先生が、笑った。笑おうとした。
「清書したのですよ。元の走り書きが、汚れたもので」
「では、その元の走り書きを、お見せいただけますか」
先生の唇が、開いたまま止まった。
「……捨てた。とうの昔に」
奥様方の囁きが、今度ははっきりと、先生のほうへ流れていった。
清書。捨てた。三月に。
「では、あのお若い奥様は、本当に流行性感冒で……」
「うちの娘も、宇佐美先生に診ていただいているのよ」
「書き直したカルテなんて、ほかにもあるんじゃなくって」
表彰状を渡した老公爵夫人が、扇を口に当てたまま、一歩、先生から離れた。
最前列で、大奥様の扇が、ぴたりと止まっていた。
白い顔が、私を見上げていた。怒りなのか、恐れなのか、読めない目だった。
宇佐美先生の額から、汗が一筋、こめかみを伝って落ちた。蝶ネクタイの上で、喉仏が大きく上下する。
表彰状を握った手が、震えていた。
「……私は、頼まれただけだ」
コメント
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第37話、めっちゃ熱かったです…!!😭🔥 宇佐美先生の表彰式の華やかな空気から一転、侯爵様が立ち上がった瞬間の緊張感がすごくて、読んでるこっちまで息を止めちゃいました。 しかもまさか印刷所の帳面と薬袋の字の癖からカルテ改ざんを暴くとは…!琴美ちゃんが「志摩活版所の娘です」って名乗ったところ、グッときたなあ。 大奥様の顔色も気になるけど、侯爵様の「妻の目は確かだ」って信頼の言葉が胸に響きました…🥺💕 続きが待ちきれないです!