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local99
#大人の恋愛
瑠璃マリコ
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頼まれただけだ。
その一言が、静まり返った講堂に落ちた。
宇佐美先生は、自分の口から出た言葉に、自分で怯えたような顔をした。表彰状が、指の間から滑って、壇の上に落ちた。
「真柴」
侯爵様が、講堂の後ろへ声を投げた。
「控え室を空けさせろ。誰も入れるな」
*
控え室は、講堂の裏手の、窓が一つきりの小さな部屋だった。
古い机と、椅子が四脚。壁に、色褪せた婦人会の旗が掛かっている。
宇佐美先生は、椅子に崩れるように腰を落とした。震える指で、蝶ネクタイをむしり取る。白衣の襟が、汗で湿っていた。
侯爵様は、扉の前に立ったまま、腕を組んだ。
私は、机を挟んで、先生の向かいに座った。
扉の外で、真柴さんが、廊下の人を下がらせる穏やかな声がしていた。
「……お慕い、しておりました」
長い沈黙のあと、先生は、机の木目を見つめたまま言った。
「小夜子様を。初めてお屋敷に伺った日から。藤の簪を挿して、縁側で歌を書きつけておられた。……お許しを、侯爵。口に出したことは、一度もございません」
侯爵様は、何も言わなかった。
「十二月の初めに、お子ができたとわかりました。三月でした」
先生の声が、かすれた。
「侯爵には、お正月にご自分で申し上げたいから、黙っていてくれと。それはそれは、嬉しそうに。滋養のためにと、薬用の葡萄酒をお出ししました。それが」
先生の手が、机の上で拳になった。
「一月に入って、急にお加減が悪くなった。吐き下し。手足のしびれ。皮膚の色。……医者なら、わかります。私にも、わかった。あれは、風邪などではない」
「砒素、ですね」
私が言うと、先生は、はっと顔を上げた。
それから、ゆっくりと、うなずいた。
「疑いました。葡萄酒を調べようとも、思った。けれど、その前に、あの方は」
先生は、両手で顔を覆った。
*
「亡くなった翌朝です」
指の間から、声が漏れた。
「医院の郵便受けに、封書が入っておりました。切手のない、手で投げこまれた封書です。中には、久遠寺家の御紋の入った罫紙が一枚」
先生は、顔から手を下ろした。目が赤かった。
「こう書いてありました。小夜子は、不義の子を苦にして、自ら毒を仰いだものと思う。家名のため、病死と記してほしい、と」
不義の子。
その言葉が、狭い部屋の空気を凍らせた。
扉の前で、侯爵様の腕組みが、ほどけた。
「不義の子、だと」
低い声だった。今まで聞いたどの声よりも、低かった。
「あれは、私の子だ」
先生が、びくりと肩を震わせた。
侯爵様は、一歩も動かなかった。けれど、黒い手袋の拳が、体の脇で、ぎしりと鳴った。
「……私は、信じたのです」
先生は、侯爵様の顔を見られずに、机に目を落とした。
「信じたかったのかもしれない。あの方が、誰か別の男の子を宿して、それを恥じて。そうだとしたら、世間に知れれば、あの方の名は泥にまみれる。死んだあとまで、笑い者になる」
声が、震えた。
「だから、流行性感冒と書きました。あの方の名誉を、守りたかった。それだけなんです」
「三月に書き直したのは」
私は訊いた。
「警察の衛生係が、流行性感冒の届けを洗い直すと、医師会で噂が立ちました。元のカルテには、十二月の懐妊も、葡萄酒も、一月の吐き下しも、全部書いてあった」
先生は、乾いた笑いを漏らした。
「出来合いの罫紙に書き直しても、紙の焼け方も、インクの色も揃わない。だから、名入りの用紙を新しく刷らせて、一月と二月の分を、全部まとめて清書し直したのです。一枚だけが新しいと、目立ちますから。……まさか、欄外の豆粒みたいな数字を読まれるとは」
先生は、私を見た。
怯えと、ほんの少しの、安堵の混じった目だった。
「千鶴様も」
先生は、ぽつりと続けた。
「お亡くなりになる年の春に、一度だけ、医院へお見えになりました。頭痛だと仰って。でも、診察が済むと、小夜子様はどんなご様子でお亡くなりになったのかと、それはそれは熱心にお訊きになった」
私は、膝の上で手を握りしめた。
千鶴さんも、あの診察室の椅子に座ったのだ。私と同じように、頭痛を口実にして。
「私は、流行性感冒で、と申し上げました。あの方は、じっと私の顔を見て、そうですか、とだけ。……その夏に、鎌倉で」
先生は、それ以上言わなかった。言えなかったのだと思う。
「二人目の奥様が亡くなって、私は、怖くなりました。次は、自分ではないかと。あの家のことは調べるなと奥様に申し上げたのは、脅しではありません。本心です」
*
「誰からの手紙ですか」
私は、まっすぐに訊いた。
先生は、すぐには答えなかった。
その目が、ゆっくりと、扉の前に立つ人のほうへ動いた。
「侯爵ご本人の筆でした」
部屋の中の音が、すべて消えた気がした。
窓の外で、診療を待つ子どもの泣き声がしていた。それすら、遠かった。
「見間違えようがありません。先代の御葬儀のとき、御礼状を何通も拝見しております。横の線がわずかに右へ上がって、止めで、筆をぐっと押さえる。あの字です。最後に、御名もありました」
横画がわずかに右上がり。止めで、筆を一度ぐっと押さえる。
私の行李の中の、二枚の半紙の字だった。今日は焦げていない。雨。縁側の拭き掃除は女中にさせろ。膝を冷やす。
「私は、書いていない」
侯爵様の声は、平らだった。平らすぎるほどに。
「……では、あれは、誰が」
先生が、かすれた声で言った。
誰も、答えなかった。
「その手紙は、今どこにある」
「医院の金庫に。捨てられませんでした。いつか、こういう日が来るような気がして」
先生は、椅子から立ち上がった。
足が、ふらついていた。それでも、背筋を伸ばして、侯爵様に向き直った。
「明日、お屋敷へ持って伺います。大奥様の前で、すべてお話しいたします。そのあとで、警察へも、自分の足で参ります」
「今夜、人をやって受け取らせる」
「いいえ」
先生は、首を振った。
「あれは、私の手でお渡ししたい。小夜子様のお部屋のある、あのお屋敷で。……それくらいは、させてください」
侯爵様は、長いあいだ、先生を見下ろしていた。
「明日の午後二時だ」
*
控え室の扉を開けると、真柴さんが、すぐそこに立っていた。
「お話は、お済みでございますか」
「ああ」
侯爵様は、短く答えた。
「宗介。明日の二時に、宇佐美が屋敷へ来る。応接間を整えておけ」
「かしこまりました」
真柴さんは、深々と頭を下げた。
「お茶のお支度も、整えておきましょう」
帰りの自動車の中で、大奥様は、長いあいだ一言も口をきかなかった。
扇を握りしめた手の甲に、青い筋が浮いていた。
私は、隣に座る侯爵様の横顔を、見ることができなかった。
あの部屋はいい、と、藤の間を拒んだ人。
夜中に、瓶を手拭いに包んで持ち出した人。
一年あまりも、毒の証拠を、誰にも見せずに引き出しにしまっていた人。
共に探してくれるか、と言った人。君だけは守る、と言った人。
どちらも、同じ人だった。
自動車が鳥居坂の門をくぐったとき、大奥様が、ようやく前を向いたまま口を開いた。
「志摩のお嬢さん」
「……はい」
「婦人会の皆様の前で、亡くなった嫁の病を暴いて、久遠寺の主治医を晒し者にした。今日のことは、忘れません」
それだけだった。侯爵様が何か言いかけたが、大奥様は、自動車が止まるのも待たずに扉に手をかけていた。
車寄せの灯りが、窓から射しこんだ。
侯爵様の膝の上で、黒い革の手袋が、静かに重ねられていた。
横の線がわずかに右へ上がって、止めで、筆をぐっと押さえる。
あの手紙が、もし本当に、この手で書かれたものだったら。
コメント
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第38話、読み終えました……。胸にずしりと来るお話でした。 宇佐美先生の「信じたかった」という言葉に、人間の弱さと誠実さが同時に滲んでいて、とても切なかったです。それと同時に、大奥様の最後の台詞と、侯爵様の手袋の描写が、次の火種を予感させてゾクゾクしました。 書き直しの罫紙の細工や、千鶴さんも医院を訪れていたという伏線の回収も見事でした。次が本当に気になります……!