空を見上げる。どこまでも広がる青空には、ただ一つ、入道雲が浮かんでいた。ゆっくりと風に乗って動いていく入道雲を見て、私もあの雲みたいに風にさらわれてどこかに消えてしまいたい。そう思った。私は自分の細い腕を見つめる。バレーに全てを捧げた三年間が、あの熱と共に呼び起こされた。
中学生、最後の夏。最後の大会の事だった。腕で受けたボールが放物線を描いて私の元へ来る。練習で何度もやった事だ。私は落ち着いてトスをあげる。風を切る音がして、ボールはスパイカーの元へ飛んだ。叩きつけられたボールが、相手のブロックに阻まれ落下していく。仲間たちは拾える距離にいたはずなのに、なぜか緩慢な動きでいた。ボールが床を跳ねて、転がっていく。私は何が起きたかわからずにいた。あんなに皆んなで必死に頑張ってきたのに、それがこんなにあっさり終わってしまって、虚無感だけを感じていた。審判がゲームセットを告げる声がやけに遠くから聞こえた気がした。私は実感もわかないまま帰り支度をして体育館を出る。そんな私の後ろから声がした。
「やっと試合終わったよ。あのキャプテン勝てないってわかってるのにずっと気合いとか言うから。正直、面倒くさいよね。」
後輩の声だった。その言葉の意味を理解した時、私は頭を鈍器で殴られたかのような衝撃を覚えた。後輩が出てくる前に、見つからないように私は隅に隠れる。そこから後輩が話してる相手を見て、更なる衝撃を受けた。後輩が私の陰口を言っていた相手は同級生で副キャプテンの夕陽だった。ずっと友達だと思っていた相手に裏切られた事が信じられず、ただ涙が溢れる。消えてしまいたい。ただ、そう思った。それからというもの、後輩から私の名が出るたびに、陰口を言われてるのではないかと不安で不安でたまらなくなってしまった。試合の時も練習の時も厳しく当たってしまったから、そのせいで嫌われたんだと自分で自分を責めたりもした。大好きだったショートケーキも、味を感じる事ができなくなっていた。他の誰も変わらないのに、私だけが変わってしまっていた。
我に返ると、私は辺りを見渡す。私は今、ヒマワリ園にいた。夏になり、美しく咲いた向日葵は、とても綺麗なはずなのに心が全く動かない自分がいた。その時、ポケットに入れたスマホが着信を告げる。垣原からだった。私は電話を取ると、心配をかけないように明るい調子を作る。
「もしもし、垣原くん?どうしたの急に?」
電話の向こう側にいる垣原は、いつになく深刻な調子だった。その様子に、私も調子を作るのをやめる。垣原は私の問いにゆっくりと答えた。
『夏輝が目を覚ましたらしい。』
私は息を呑む。すぐに荷物をまとめると、すぐに行く、と一言だけ伝えて電話を切った。
勢いよく引き戸を開くと、中にいた2人が驚いて振り向く。ゼエゼエと肩で息をする私に気を遣って、垣原が椅子を譲ってくれた。
「良かった、良かった相田くん。」
手を握ると、私は泣きそうになるのを堪える。ずっと聞きたくても聞けなかった相田の声が、はっきりと聞こえてくる。相田の手のひらは暖かく、彼が生きていることを確かにしていた。
「平井さんちょっと、痛いかも。」
そう言って相田は笑顔を見せる。もう二度と見れないと思っていた笑顔を。
「平井も来た事だし、本題に入るぞ。」
私は、垣原の様子を固唾を呑んで見守る。垣原の言う本題とは、春華の夢の事だった。私も、垣原も、春華がこの世を去ってから、春華の夢を見ていた。その内容はどちらも同じく、幸せになってね。夏輝と仲良くしてね、だった。この夢を見たのがだいたい二ヶ月前、相田が事故に遭った時だ。関係がないとは思えない。
「おまえも、相生の夢を見たんじゃねえか?アイツが一番大切にしてた人に姿を見せずに消えるとは思えない。」
病室に深刻な雰囲気が流れ始める。その中、中心である相田が重い口を開いた。
「ごめん、起きてから記憶があやふやで。記憶の中にいたはずの春華が全て朧気なんだ。長い夢を見ていた気がするけど、それも朧気で、なにも思い出せない。ごめん、本当に。」
その言葉に垣原は呆然とする。その後、何も言わず無言で病室から飛び出して行った。私は慌てて相田にサヨナラを告げると、垣原を追っていく。垣原は病院の外で、1人で黄昏ていた。
「結局、振り出しか。なんの意味もなかったな。」
私に気づいた垣原が長い髪の毛をかきあげて言った。目鼻立ちの整った彼の所作は、私の目には美しく映った。
「平井、これからどうする?もう諦めるか?」
垣原は私に近づくと、優しい声音でそう言った。私は強く、首を横に振る。私は春華を忘れたくないから、絶対に諦めたくない。私は二ヶ月前を思い出す。
「私を忘れて、幸せになってね。」
そう言うと、目の前の少女の姿は風景に溶けていく。嫌だ!叫んで手を伸ばしても、私は彼女に触れる事すら出来なかった。それでも私は手を伸ばす。その時、ピピピピピ、と、この空間には不似合いな電子音が私の鼓膜を揺らした。カーテンの隙間から覗く光が、朝の訪れを知らせていた。変な夢だった。そう思うが、深く内容を思い出す事が私にはできなかった。目元を擦ると、私は自分が泣いている事がわかる。何でだろう。そう気になったが、考えても仕方がないと割り切る事にした。それから私は枕元のスマホを手に取り、アラームを止める。一日が始まった。
学校に入ると、昇降口で靴を履き替える。靴箱に入れようと体を動かした時、見慣れない姿が目に映った。
「あれ、おはよう垣原くん。こんな時間に珍しいね。どうしたの?」
私は、私と同じように靴を履き替えていた垣原に声をかけた。
「ああ、おはよう平井。なんか、変な夢を見て、こんな時間に目が覚めたから来てみたんだよ。」
ーーがいなくなってから、久々に聞いた声は、なんだか大人びて聞こえた。
「ふーん。そういえば私も変な夢みたんだよね。」
誰かと話した記憶があるが、その姿が明瞭ではなくて、深く思い出す事ができない。その事を垣原に話すと、彼は驚いたような顔をした。
「マジか、俺も。なんか、幸せになってねって。」
きっと私は垣原よりも間抜けな顔をしていたのだろう。奇妙な繋がりは、一度離れてしまった2人の距離をもう一度繋ぐキッカケになった。2人で夢について話しているうちに、朧気だった夢の内容がどんどん鮮明になっていく。溶けていった少女の輪郭を取り戻していく。彼女の名前は相生春華、私たちの友達だった子だ。しかし、その記憶は薄れていってしまって、深く思い出す事は私たちにはできない、今のところは。でも、2人で話すうちに思い出したように、話す事で、思い出す事ができるのかもしれない。もしできるのなら、失ってしまったあの子を取り戻したい。私たちは2人で約束を結んだ。
私は、私よりも20cmは高い垣原を見上げる。
「約束したでしょ。絶対に思い出す。何をしてでも、私は春華の事を取り戻す。」
握られた拳に爪が食い込んで、鋭い痛みがはしる。それを見た垣原が、ゆっくりと息を吐くと、言った。
「そっか、そうだよな。絶対、取り戻すぞ。俺も相生の事を忘れたくないからな。」
私たちは振り出しに戻ったけれど、それは原点に帰っただけ。もう一度、最初から始める。私は失いたくないから。夢を、幻を、君を。
コメント
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新連載です! 前作のキャラが関わってくるので、前作も合わせてお楽しみください‼︎