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動揺する馨に穏やかな微笑みを向けて、社長は部屋を出て行った。
俺は馨に一歩近づき、少し屈んで言った。彼女の耳元で、囁くように。
「つまり、私をそばに置くか、路頭に迷わせるかは、専務次第ということです」
馨は飛び跳ねるように、三歩後退った。
「どうして、こんなこと——」
「敬愛する専務のお力になれたらと——」
「気持ち悪い話し方しないで!」
本気で気持ち悪そうだ。
「ひっでぇな。優秀な秘書らしく、お行儀良くしてやってんのに」
「どうして立波リゾートにいるの?」
「転職したから」
「転職——って……」
「黛のことで社内がバタついて、なんか色々面倒になったから辞めたんだよ。で、専務秘書の募集に応募したら——」
「募集に応募!? 会社を辞めたのが私のせいだって、会長と社長を脅したんでしょ!」
馨の、いつもの調子に気持ちが弾む。
「人聞き悪いことを言うなよ。俺が立波リゾートに来ることはだいぶ前から決まってたんだよ。それなのに、予定してた役職をお前に横取りされて、仕方ないから秘書として——」
「そんなこと、聞いてない!」
「言ってなかったからな」
馨と一緒に結婚の挨拶をした日から、俺は会長と社長と連絡を取っていた。
絶対に両親を説得するからと、俺が立波リゾートの社長となるべく、段取りを決めていた。
「ちょっとは喜べよ。こんな頼りになる秘書なんて、そういないぞ? 超がつくほど優秀で、イケメンで、その上身体の相性も文句なしだ」
「余計なのよ! イケメンで身体の相性がいい必要はないの」
「じゃあ、クビにするか!?」
馨がグッと口をつぐんだ。
悔しそうに俺を睨みつけるが、その上目遣いは誘われているようにしか見えない。
「いいぞ? その代わり、上司と部下でなくなったら、迷わずお前をそこのデスクに押し倒すぞ」と言って、馨のすぐ後ろのデスクを指さす。
二人で寝ころべそうなほど広いデスクには、隅にノートパソコンがあるだけ。他の備品は壁のキャビネットの中。
「俺はどちらでもいいぞ? 俺の部屋のテーブルはちょうどいい高さだったが、そのデスクはどうかな?」
「最低!!」と、馨が顔を赤らめて怒る。
俺の部屋でのセックスを思い出したのだろう。どんなに怒っても、可愛いとしか思えない。
俺は一歩、前進した。
馨が一歩、後退する。
「最低で結構」
俺が一歩前進し、馨が一歩後退する。
俺は馨から目を離さず、彼女にも目を逸らす隙を与えない。
「で? どうする?」
「……」
一歩前へ、一歩後ろへ。
見つめ合ったまま、じりじりと移動する。
「俺を秘書として認めるか、俺をクビにして今すぐ抱かれるか」
「…………」
今度は、俺が一歩踏み出す前に馨が後退り、デスクにぶつかった。反射的に身体を抱えるように胸の前で両腕を交差させ、そのタイミングで馨の視線が逸れた。
「どっちにしても、私には都合が悪いじゃない! 公平じゃない!!」
「いや、どっちもお前に美味しい話だろ。優秀な秘書を手に入れられるか、最高のセックスが出来るか。普通は喜んで両方選ぶだろ」
「悪かったわね、普通じゃなくて!」
俺は二歩前進し、馨の身体に触れないように、けれど逃がさないように彼女の身体を覆うようにしてデスクに手をついた。
馨は少し仰け反る格好になった。
「で? どうすんだよ。こっちは三週間ぶりに惚れた女を前にして、我慢の限界に挑戦中なんだよ。俺が選ばせてやってるうちに答えないと、問答無用で——」
「なんでこんなことするのよ! 言ったでしょ!? 私にはもう、共犯者は必要ない!!」
「わかってるよ。俺たちはもう、共犯者じゃない」
「だったら——」
「だから、だろ! こんなことをしてまでお前が欲しいって、なぜわからない!?」
息がかかる距離で大声を出されて、馨が委縮する。
怖がらせたいわけじゃない。
俺はデスクから手を放し、三歩下がった。
「安心しろ。上司と部下である限り、お前が求めなければ、俺はお前には触れない」
自分を戒めるように、言った。
本当は、黒のパンツスーツを引きちぎって、素肌に触れたい。
だが、そんなことをしても、馨を取り戻せない。
「俺はお前に愛してると言った。あとは、お前次第だ」
馨が、自分の気持ちに正直にならなければ、意味がない。
どんなに馨が欲しくても、無理やりに抱いて、また拒絶の言葉を投げられるのならば意味がない。
「デスクでのセックスをお望みじゃないのなら、社内を案内させていただきますが? 専務」
俺は背筋を伸ばして言った。仕事用の顔で。
馨はジャケットの襟を正し、同じく仕事用の顔に切り替えた。
「お願いします」
「……セックス?」
「案内!」
「冗談ですよ」
こんな感じで、俺と馨は『上司と部下』になった。