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専務と秘書の一日目は、社内の案内と各部署への挨拶、専務職の具体的な仕事内容の説明、社の規律や定例会議の日程などの説明、で終わった。
二日目は、取引先への挨拶回り。
三日目は、主要株主への挨拶回り。
四日目は、都合が合わなかった取引先と株主への挨拶回り。
五日目は重役会議と、会長と社長とのランチミーティングに、親睦会と称した重役たちとの飲み会。
覚えることの多さに、馨はぐったりしていたが、俺は一日中堂々と彼女と一緒にいられて満足だった。
素直に俺を頼ってくれるのも、嬉しかった。
毎朝七時に馨をマンションまで迎えに行き、朝飯を食いながら一日の予定の確認をした。仕事が終わればマンションまで送っていく。
約束通り、俺が馨に触れることはなかったが、日に日に目が合う回数が増えていることで、彼女が根負けするのに時間はかからないと、確信していた。
馨の新しい住まいは、立波リゾート本社ビルから車で十分ほどの場所にある、高級分譲マンションで、俺のマンションまで車で十五分の距離。
馨が住んでいると知って、マンションの間取り図を見た。二十畳のリビングに、十五畳の寝室には三畳のウォークインクローゼットがついている。十二畳の部屋が二つと、六畳のバスルーム。
馨一人で暮らすには広すぎる。
高津から、馨が立波リゾートを継ぐ気だと聞いた時は、驚いた。同時に、納得も出来た。
驚いたのは、馨が立波リゾートに興味がないことを知っていたから。
納得したのは、そうすることがすべてを丸く収める方法だから。
重役たちとの飲み会の後、帰る車の中で馨は眠ってしまった。俺がちょっと目を離した隙に、常務に日本酒を勧められて飲んでしまったから。
何とか最後まで目を開けていられたのは、緊張感とキンキンに冷えたミネラルウォーターのお陰だろう。
「着きましたよ、専務」
起きるはずがないことをわかっていて、俺は一応声を掛けた。
正面のエントランスをぐるっと一周して、地下駐車場に向かう。入り口《ゲート》の前で停車し、馨のバッグを物色してカードキーを探し出した。馨の部屋の番号が書かれたスペースに車を停め、彼女と彼女のバッグを抱えて降りた。
久し振りの馨の感触。
見た目にも気づいていたが、痩せた。
俺が怪我をする前、もう二か月も前になるが、その時からどんどん痩せていく。
一緒にいる間はきちんと食事を取らせているが、以前ほどの量は食べていないし、なにより、食べていても幸せそうではない。
俺はセキュリティのカードリーダーにカードキーを滑らせた。四桁のパスワードが必要らしい。そこまでは、知らなかった。
「馨、パスワードは?」
「……ん」
「マンションのパスワード」
「たん……じょ……び」
誕生日?
そんな簡単なパスワードでいいのか、と思いながら、『0923』を押した。扉は開かず、ディスプレイには『Error』の文字。
「馨、本当に誕生日か?」
「うん……」
念のために、もう一度『0923』を押す。やはり、『Error』。
この、酔っ払いが。
俺はため息をつくと、馨の寝顔を眺め、俺の家に連れて帰ろうかと考えた。久し振りに、あのベッドで馨を抱いて眠りたい。
なんなら、また縛ってもらっても——。
扉の向こうのコンシェルジュが、明らかに怪訝な表情で俺を見ていることに気がつき、不埒な妄想を吹き飛ばした。
そして、何の気なしにパスワードを入力した。本当に、何の気なしに。
それでも開かなければ、家に連れて行くつもりで。
けれど、扉は、開いた。
パスワードは、『1010』。
俺の誕生日……。
俺はキスしたい衝動を堪えて、馨を抱え直した。コンシェルジュに自分が馨の秘書であることを名乗り、名刺を渡した。
馨の部屋は驚くほど簡素だった。
家具家電は全て元のアパートで使っていた物で、真新しいものはない。その上、本来は寝室にあるべきベッドやタンスまでもリビングに置かれていた。
俺は馨をベッドに横たえると、他の部屋を覗いた。
ドアを開けると、冷たい空気が頬を撫でた。寝室にも他の二部屋にも、カーテンすらついていない。
台所も使われた様子はなくて、冷蔵庫にはペットボトルのミネラルウォーターとウーロン茶、冷凍庫にはレンジで温めるだけのパスタが三袋入っているだけだった。
俺と暮らしていた時、馨は色々な料理を作ってくれた。数回しか行かなかったが、アパートの台所も調理道具や調味料が並んでいた。
だが、マンション《ここ》では鍋もフライパンも引き出しに置かれたまま、使われている様子はない。
愕然とした。
このままじゃ、馨が壊れてしまう——!
俺はテーブルの上のカードキーを手に取ると、部屋を飛び出した。
自分のマンションに帰ると、三日分の着替えと身の回りのものをスーツケースに詰め込んだ。冷蔵庫の中身と調味料なんかを袋に入れ、それもスーツケースに押し込んだ。
少し前まで馨の荷物を入れていた部屋のクローゼットから客用布団を引っ張り出し、車に積み、部屋の暖房や不必要なコンセントを抜いて、馨の元へ戻った。
コンシェルジュは俺の行動を怪しんでいたが、何も言わなかった。
俺が慌ただしく出入りしているのにも全く気がつかず、馨は熟睡していた。
俺は空いている一部屋に荷物を入れ、布団を敷いた。さすがに勝手に風呂に入るのはマズいと思い、今夜はこのまま眠ることにした。
六時間後。
カーテンのない部屋は寝坊するには不向きで、神々しい日差しで目を覚ました。
午前六時。
物音はしない。
俺は顔を洗って髭を剃ると、台所に立った。
十五分ほどして、リビングで物音がした。カウンターキッチンだから、目を覚ました馨には俺の姿が見えたはず。だが、俺が顔を上げた時には、さっきまで仰向けで眠っていた馨は頭まですっぽりと布団をかぶっていた。
「おはようございます」
明らかに起きているのに、返事がない。
「専務?」
「——どうしてっ……いるの?」
布団の中から曇った声が聞こえた。
俺はオーブントースターに食パンを二枚入れて、タイマーを回した。ジーッと機械音がしだして、ランプが徐々に赤くなる。
「食事の用意が出来てますから、シャワーを浴びてきてください」
「雄大さん!」
秘書になってから、馨は俺を『槇田さん』と呼んでいた。だから、『雄大さん』と呼ばれるのは一か月くらいぶり。
ちょっと、ジンとした。
同時に、『秘書』から『男』に、スイッチが切り替わった。
「今日から一緒に暮らすから」
「え!?」
ガバッと布団から馨が飛び出してきた。
「部屋は余ってるみたいだし、いいだろ」
目玉焼きとウインナーを皿に載せ、レタスを添えてカウンターに置いた。二人分。コーヒーが入ったカップも。
信じられないという顔で俺を見ている馨を尻目に、テーブルに皿とカップを置いていく。
家から持って来たジャムの瓶も。
「こんなことは……秘書の仕事じゃないでしょ!」
「上司の体調管理も秘書の仕事だろ」
「必要ない!」
「どこだがよ。冷蔵庫はほぼ空っぽで、台所はまるで生活感がない。そもそも、なんでリビングにベッドがあるんだよ。これじゃ、ワンルームのアパート暮らしみたいだろ」
馨はベッドの上で膝を抱えて蹲った。泣いているのかと、思った。
「関係ないじゃない……」
声の様子からすると、泣いてはいないよう。
「ちゃんと自炊できる余裕が出来たら、出て行くから」
俺は、心にもないことを言った。
四六時中一緒にいたら、馨も観念して俺を受け入れるのではないか、と思わなかったわけではない。
「職場にも自分の立場にも慣れてないし、憶えることも多くて大変だろ。落ち着くまで、俺を利用しとけ」
これは、本心。
疲労やストレスでボロボロになっていく馨を放ってはおけない。
チン、とトースターのタイマーが止まった。
「あ、パンが焼けたから、飯食おうぜ」
馨は動かない。
パンとヨーグルトをテーブルに持って来て、俺はブルーベリージャムを自分のパンに塗った。
「飯食うのとセックス、どっちがいい?」
馨は不機嫌そうにのっそりと動き出して、俺の正面に座った。
「そんなに嫌か、俺とセックスするの」
俺もまた不機嫌さを隠さずに、言った。食パンを一口食べる。
「いただきます」
馨はイチゴジャムをパンに塗って、ブルーベリージャムをヨーグルトにかけた。
セックスが脅し文句になりつつあるのは納得いかなかったが、とりあえず、今日は幸せそうにパンにかじりつく馨を見られたから、良しとした。