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喧騒が去り、アムール・ホールは深い海の底のような静寂に沈んでいた。
鑑識のライトも、パトカーの赤色灯も、今はもうない。ただ、高い天井から降り注ぐ非常灯の淡い光が、誰もいなくなったステージを青白く浮かび上がらせている。
私は、ロッカーの整理を終え、ようやく重い腰を上げた。
ふと視線を上げると、無人のはずの舞台中央に、一人の影が立っていた。
柊さんだった。彼は、誰かが慌てて置いていったのか、椅子の上に残されていた一台のバイオリンを、壊れ物を扱うような手つきで手に取っていた。
「……柊さん、まだいたんですか。もう撤収ですよ」
私の声は、広大な空間に吸い込まれるように消えた。柊さんは答えなかった。ただ、慣れた手つきで顎当てに顔を沈め、弓を弦に乗せた。
その瞬間、一本の糸が空気を切り裂くような、鋭く、けれどひどく透明な音が響いた。
奏でられたのは、鎮魂歌(レクイエム)。
先ほどまでの毒を吐く詐欺師の面影は、どこにもなかった。弦を震わせる彼の指先は、誰かの人生を解体するためのものではなく、傷ついた魂を優しく撫でるような、慈愛に満ちた動きをしていた。
音色が、ホールの壁に反響し、重なり合い、厚みのある哀しみとなって私を包み込む。
それは、亡くなった篠原久美さんへの弔いであり、同時に、二年前から時間が止まってしまった彼自身への、静かな慟哭のようにも聞こえた。
私は、動けなかった。客席の最前列で、ただ立ち尽くし、その背中を見つめていた。
彼の奏でる音が、私の胸の奥にまで入り込んでくる。嘘で塗り固めた世界の住人だと言いながら、これほどまでに「真実」に近い、純粋な音を出せるのはなぜだろう。
舞台上の彼は、ひどく美しく、そして手が届かないほど遠くに見えた。心臓の鼓動が、音楽のリズムに合わせて早まっていく。これが事件の興奮によるものなのか、それとも、別の「何か」の始まりなのか。その境界線が、今はもう、自分でも分からなくなっていた。
最後の音が、長い余韻を残しながら夜の闇に溶けていった。柊さんは、ゆっくりと弓を離すと、深い溜息を一つついてバイオリンを元の椅子に戻した。
「……素敵な演奏でした」
私がようやく言葉を絞り出すと、彼は振り返り、いつもの飄々とした、けれど少しだけ疲れを孕んだ笑みを浮かべた。
「おや、まだいたのかい。僕の隠し芸にチップを払いたくなったかな?」
「皮肉を言う元気があるなら安心しました。……でも、本当に驚きました。バイオリンまで弾けるなんて」
私は、ステージに上がる階段を数段登り、彼と同じ目線に立った。近くで見る彼の瞳は、先ほどの音楽の熱を帯びているようで、いつもより少しだけ潤んで見えた。
「……どこで習ったんですか? 音大生にでも化けていたことがあるんですか?」
私の問いに、柊さんは少しだけ目を細めた。彼は私の顔に手を伸ばし、頬にかかった一筋の髪を、指先で耳の後ろへとかけた。そのわずかな接触に、全身が粟立つ。
「内緒だよ」
彼は、私の耳元で囁くように言った。
「詐欺師が種明かしをするのは、すべてが終わった後だって決まっているんだ」
そのまま、彼は私の肩を軽く叩いて追い越し、舞台袖へと歩き出した。残されたのは、松ヤニの香りと、彼が最後に残したいたずらっぽい視線の記憶。
私は、自分の胸がうるさいほど鳴っているのを隠すように、冷たい両手で頬を押さえた。どこまでが演技で、どこまでが真実なのか。それを暴くのが私の仕事のはずなのに。
今夜だけは、彼の「内緒」という嘘の中に、ずっと閉じ込められていたいと思ってしまった。
誰もいなくなったホールに、消えかけたレクイエムの残像だけが、いつまでも美しく揺れていた。
#オリジナルキャラクター有り