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深夜の病院。廊下の照明はさらに落とされ、深い青に沈んでいた。
柊さんは迷いのない足取りで、飯田さんが眠る……いや、目を覚ましたばかりの病室へと戻っていった。
「……随分と、いいタイミングだったね」
開け放たれたドアの隙間から、柊さんの冷ややかな声が聞こえてきた。
ベッドの上で上半身をわずかに起こした飯田さんは、顔を包帯で覆われ、痛々しい姿で柊さんを見つめていた。その瞳には、先ほどまでの偽りの平穏はなかった。
「あなたは?」
「警察の関係者、いや、今はあんたの同業者として話をしに来た。詐欺師だ」
「詐欺師?」
「あんたは今や命を懸けて店を守ろうとした勇敢な婚約者。強盗に遭ったのは偶然だろうが、演出としては最高だ。これであのババアはお前を完全に信用する。あとは適当な理由をつけて金をたかり、権利を奪い、消えるだけ。結婚詐欺師としては、これ以上ない幕引きだな」
柊さんの言葉は、あまりにも残酷で、容赦がなかった。病室の外で話を聞いていた私は少し身震いをする。
「……違う」
「だが今回は諦めろ。偽名のことも素性も彼女にばれている。もう詐欺は無理だ」
飯田の喉から、掠れた声が漏れた。
「違う。……そんなんじゃない」
「何が違うんだ? お前はプロだろう。名前を偽り、素性を偽り、女の孤独につけ込んで金を奪う。それがお前の仕事のはずだ。今さら改心したなんて、安っぽいドラマのようなことを言うつもりか?」
「……あぁ、その通りだよ。安っぽいよな」
飯田さんは自嘲気味に、短く吐き出した。
「彼女に会ってから、あのお店で働くようになってから……本当に、馬鹿なことを考えていたんだ。もう、詐欺なんて辞めたって。飯田譲二としての人生を捨てて、彼女の隣にいる高橋として、本当に生きていけるんじゃないかって」
「偽名を使っておきながらか。笑わせるな」
「申し訳ないと思ってる。……でも、彼女と過ごす時間は、僕がこれまで奪ってきたどんな大金よりも、本物だったんだ。今度こそ、本気で付き合いたかった。あの日、強盗がナイフを振り回した時……体が勝手に動いたんだ。彼女の大事な店を守りたかった。それだけなんだ」
飯田の声は震えていたが、そこには先ほどのような迷いはなかった。
「……詐欺師を、そんな簡単に辞められるのか?」
柊さんの問いに、飯田は一度だけ、深く、重い呼吸を繰り返した。
「あぁ。……地獄に落ちる覚悟はできている。でも、彼女への気持ちだけは、嘘じゃない」
病室のドアを押し開けて、真希さんが中に駆け込んだ。柊さんが事前に呼んで、病室前に待機させていた。
「譲二さん……!」
彼女の叫び声と、止まらない涙。飯田は驚いたように目を見開き、そして深く頭を下げた。重傷の身でありながら、彼は絞り出すように「すみませんでした」と繰り返していた。
柊さんは、その光景を一瞥すると、無言で廊下に出た。私はその後を追う。
「……あんな言い方して、どうしたんですか? なんからしくない」
「元詐欺師として言うが、あれは本当だね。人は、最も守りたいものの前では、上手な嘘を吐くのを忘れるものさ」
#オリジナルキャラクター有り
柊さんは、いつものようにグレーのコートの襟を正した。
「……柊さん」
私は、彼の背中に向かって、ずっと気になっていたことを口にした。
「柊さんは、飯田さんが改心するって分かってて、わざと真希さんに聞かせたんですね」
「いや、本当に今回も結婚詐欺なら、あの問いただし方で吐くと思っただけだ」
「……そんな上手に嘘をつけるあなたが、どうして今は警察に協力してるんですか?」
私は一歩踏み出し、彼の瞳を覗き込んだ。
「それとどうして、あなたは詐欺師を辞めたんですか?」
柊さんは足を止め、夜景が広がる窓の向こうを見つめた。
その横顔は、街の光に照らされながらも、どこか深い闇を抱えているように見えた。
「……あいつと同じ理由だな」
独り言のように呟いた言葉。あいつと同じ。つまり、愛する人と出会ったから?
柊さんの瞳に、一瞬だけ、形のない哀しみがよぎった気がした。
「……腹が減ったな。南さん、この辺りに味の濃いラーメン屋はないかな」
彼はそう言って、いつもの飄々とした態度で歩き出した。
私は彼の背中を見送りながら、彼が抱えている過去の重さを、改めて感じていた。
飯田譲二が流した血は救済となったが、柊渡が背負っている闇の先には、果たして何があるのだろうか。
夜の病院を後にする私たちの影は、長く、静かに伸びていった。