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着信があるとすぐに出てしまう。分かっているから携帯を手元に置いている。テレビを見ながら。……ひとりきりの孤独を味わいながら。
「莉ー子。ただいま」
「おかえりなさい……」電話越しに伝わる課長の声が胸を熱くする。「いま、帰ったところですか?」
「んー」なにかを開いた音。たぶん、缶ビール。「今日は忙しかったな。流石に決算の時期はきついな」
決算自体は経理部の仕事ではあるが、経営企画課は売上決算をまとめ、データの分析をしているから、ある程度彼らの役割を引き受ける。よって、決算が迫るとやることが盛りだくさんだ。
「課長、今夜はなに食べるんですか?」
「コンビニのサラダ」
「あ……」こういうとき、一緒に暮らしていたらな、と思う。尽くして尽くして尽くしてあげるのに。「そうですか。冷たくて美味しいですよね」
「莉子の味には敵わないさ」
「えっと……」
「戸惑っているきみが目に見えるようだよ。……そういえば莉子。莉子っていつもシャツにタイトスカートだよな。今度の連休、買い物に行こうか。服、買ってあげる」
「え。嬉しいですけどでも……」
「でも?」
「いかにも、……じゃないですか。例えば、彼氏が出来ました。態度が変わりました。相手が上司に関わらず交際をオープンにしました。挙句、ファッションも変えたらそれこそ、なに言われるか……もう」
「ネタには本当困らない奴らだよなおれら」弾んだ課長の声が心地よい。「まあ、いいんじゃない? 悪い方に変わるならともかく、いい風に変化するならみんな、喜んで受け止めるさ……」
「そうかな。露骨すぎてまずいかな、って思うんですけど……」
「きみは知らないだろうけれど、きみのファンってたくさんいるんだよ」ブレス音を挟み、課長は、「失恋で傷ついてる彼らのために、むしろ、癒し、……って必要なんじゃないかなあ?」
「――癒し」
「莉子さぁ。ずっとずっとストレートロングで、その清潔感もたまらないんだけど、パーマかけてみたら? それも似合うと思うよ」
「えっパーマ。パーマですか?」わたしは膝を抱えながら問いかける。「課長みたいに上手くかかったら最高ですけど。でもわたし、昔、ショートだったときにかけたことあるんですけど、かかりにくいみたいで。わかめみたいにひっどいことになったんですよ……。それトラウマで」
実を言うと髪を切ったのは、男に犯されたことがきっかけなのだが。それまでの自分を捨て去りたくて。
「似合うと思うけどな……えびちゃんみたいなゆるふわパーマ」
「えっ課長蛯原友里好きなんですか?」
「嫌いなひといんの? 逆に……十年前から変わらないんじゃんビジュアル」
「確かにすごく……綺麗ですよね」課長と話し始めてから、結局ドラマの内容は頭に入らない。わたしはテレビを消した。「安達祐実とかああいうぱっちり系の美人って、すごく、……憧れます」
「莉子は……すごく、綺麗だよ……」
「なに言ってんですか課長」
「いや本当に。なんでこんな綺麗な子が会社にいるんだろうって、初めて会ったとき、おれすごくそそられたんだぜ? きみがいたから、おれはいまの会社に入った……。
莉子。運命なんだな。おれたち」
――運命。
なんという、心地よい響き。
「課長、そろそろご飯食べなくて大丈夫ですか? この後お風呂とか入ったり……」
「あー莉子ぉー」突然喚いた課長が、「おれさ。きみさ。……おれがどんな気持ちで仕事してるか分かってる? 魅力的なきみを職場で見かけるだけで欲情するし、気持ち押さえ込んでポーカーフェイス作るのまじ、大変なんだから……」
わたしはくすくす笑い、「課長もキャラチェンしたらどうです? ワイルドに髭伸ばすとか……」
「あ、美容室」思いついたように課長が、「おれの行きつけの美容室にすごい凄腕の店長さんがいるからさ。そこ、行ってみようよ。うちの近くにあるから。連休でよければおれが予約取っとくよ」
「え……あ、じゃあ……お願いして、いいですか」
課長はいつも髪型が素敵で。さりげなくモデルチェンジを繰り返しているのをわたしは知っている。清潔感感じる、前髪を眉のあたりに切り揃えたカットもよかったけど、最近の、前髪にゆるくパーマをかけたスタイルも気絶するほど素敵なのだ! つい先週末、課長は髪型を変えて……ああ、もう、たまらない!
「分かった。じゃあ、また明日な。……ああ、明日仕事終わったらそっち直行するから。ご飯は先に食べてていいぞ」
「ええ。……待ってます」
勿論わたしは先に食事を済ませるはずがなく。健気な新婚妻のごとく、旦那様(課長)の帰りを待つのだ。
「……おやすみ」
ちゅ、とキスの音がしたのでわたしは電話を落っことした。下にラグ敷いといてよかった。携帯は無事。……課長。ほんとロマンティストなんだから。でもそういうところが、
「大好き……課長」
いまだ熱の残る携帯を、わたしは抱き締めた。
* * *
ベッドに入るときに必ず課長を思い出す。課長とは――遼一さんとは、週に二回、互いの部屋に泊まる関係が続いている。火曜日と水曜日をわたしのマンションで、木曜日から日曜にかけてを、課長の部屋で過ごす。特に水曜日の夜が浮き立ってしまって、課長の匂いの残された布団のなかに入り、二十四時間後には、めくるめく愛の渦に投じられていることを夢想しながら、課長に包まれているかのような安堵を得る。離れていても、課長に守られている。幸せ……。
完全にフリーなのは月曜だけなのだが。でも、その孤独があるからこそ、一緒のときにより幸せを感じられるというか。このスタイルを提案したのは課長だった。
『おれたちどっちもものすごく相手を想っていて幸せで、ずっとずっと一緒にいたいけど、きみは、孤独を知るひとだ。いまだからこそ。つき合い始めの、いまだからこそ、敢えて、相手に会わない時間を作るべきだと思う』
確かにわたしは、課長と結ばれた直後も、部屋の掃除とか、換気とか、そういう、地味で慎ましい、一人暮らしならではの雑務を考えていた。課長の言う通りで、わたしは孤独を知るひとだ。
一人っ子で。親が共働きだったから、小学生三年生の頃から夏休みはひとりで過ごして。六歳の頃からパソコンを使えるようになって、好きな動画を見ていたと思う。友達になら気軽に打ち明けられる悩みとかも、親には、言えなくて。親と仲がいいからこそ、分かち合えない孤独を知るからこそ、わたしは孤独の意味を学習したのだと思う。
『おれが傍にいるとつい、きみを抱いてしまうから。きみに触れてしまうから。きみは、生きていることの意味とか、人生の価値とか、いろんなことを考えるひとだから……ひとりになって、自分を見つめ直す時間も必要だと思う。
結婚したら、なかなかそんな時間は取れないかもしれないから。……ほら子どもでも生まれたらさ。かかりっきりになっちゃうだろうから……』
課長は、わたしと結婚して子どもを作ることまで考えているのだ。幸せな未来予想図に胸が高鳴る。
「好き……好き、好き、大好き課長……!」
彼に見立てた、彼の匂いが染みついた枕に抱きつきながらわたしは彼の与える幸せに酔いしれる。ベッドのなかで、もだもだ。これもまた、彼の与えてくれた孤独と自由なのだろう。
『愛している。莉子……ああ、愛している……』
課長はわたしのなかで果てるときに、必ず愛の言葉をくれる。それは、誰にも邪魔されない神聖なる儀式。課長の愛があるから、わたしは生きていける。
くんくん、と課長の匂いを嗅いだ。枕は、新しく買ったものだ。ぽーんと一万円の枕を買う課長にはびっくりしたのだが……枕がよくないと寝違えてしまうらしい。――この、シングルベッドで、あとどれくらい、課長と眠る時間は残されているのだろう。幸せな予感に、笑みを抑えきれない。
「課長、わたし、幸せ……」
ベッドから長い足がはみ出しそうになって、課長と足を絡ませ、この狭いベッドで眠る。互いの想いを確かめるかのように。課長、腕枕なんかして、翌朝腕を痺れさせて、わたしを笑わせて――改めて惚れさせてくれる。
知っている。わたしは毎日あなたに――恋をしている。
目を閉じた。課長のぬくもりが気配が感じられる。離れていても、寂しさなど微塵も感じなかった。声も――仕事のときの、わざと作ったような冷淡な目つきも、それからわたしを愛しこむときの熱っぽい目線も――全部全部、好き。
いったいどうやったら課長のようなひとを嫌いになれるんだろうと、不思議になるほどで。
わたしは、課長のくれたすべての幸せと孤独を感じながら、安心して眠りに就いた。夢にも課長が出てきた。わたしの髪に触れ、愛おしげな眼差しをくれ、また――花のように、美しく笑っていた。
『莉子――愛している』
*