テラーノベル
アプリでサクサク楽しめる
#サレ妻
都築七美
1,141
赤井 里会
1,613
ゆうき
73
佐伯凛。
看護師は何度も、その名前で私を呼んだ。
違う、と言おうとした。
喉の奥で、焼けた紙をこすり合わせたような音がしただけだった。声は、どこにも残っていなかった。
「無理にしゃべらないでくださいね。喉にも火傷があるんです。お顔も、いまは包帯で覆っていますから」
顔。
右手を持ち上げると、指先に当たったのはガーゼの厚い層だった。その下にあるはずの自分の頬が、どこにあるのかわからない。
「事故から四日です。よく頑張りましたね」
四日。
私は天井を見たまま、その数字を何度も数え直した。
あの夜の次の朝。十一月二十一日の七時。
陽翔は目を覚まして、ママが起こしに来るのを待っただろう。来ないから、ぴょんたを抱いて、裸足で廊下を歩いただろう。
冷蔵庫には、ラップをかけた卵焼きが入っていたはずだ。
あの子のお弁当箱に、誰かがそれを詰めてくれただろうか。
耳ぽんぽん、二回。
約束をしたのは、私のほうだった。
私は看護師の白衣の袖を、指でつまんだ。
声の代わりに、自分の顔のあたりを指さし、それから空中に四角を描いてみせる。
「鏡ですか?」
うなずくと、看護師は少し困った顔をした。
「ごめんなさい。先生のお許しが出るまで、もう少し待ちましょうね」
やさしい声だった。
そのやさしさで、見ないほうがいいものがこの包帯の下にあるのだと、私にはわかった。
*
翌日、看護師が紙袋を抱えて入ってきた。
「佐伯さんの持ち物です。事故のとき、ずっと抱えていらしたんですよ。警察の方が中を確かめて、それでご身元がわかったんです」
袋から出てきたのは、泥の染みた布のバッグだった。
あの人が、助手席の私の足元に置いたバッグ。
看護師は中身を一つずつ、ベッドのテーブルに並べていった。
運転免許証。
家政士の資格証。
「根津・村雨家政婦紹介所 村雨トキ様」と表書きされた推薦状。
手書きの履歴書の控え。
長野県松本市、児童養護施設あかつき園、大貫先生と宛名のある封筒。切手は貼ってあるのに、消印がない。
それから、使い込まれた柘植の櫛。歯の間に、茶色がかった短い髪が二本からまっていた。
封筒の裏には、丸い字で「凛」とだけ書いてあった。
私は封を開けなかった。代わりに、櫛を手のひらにのせた。持ち手の角が丸くすり減っている。何年も、毎朝この櫛で髪を梳いてきた人の道具だ。
私は免許証を手に取った。
佐伯凛。三十歳。
写真の中で、丸い目の女の人が、少し照れたように笑っていた。
あの人だ。
骨の折れた傘を律儀に差していた人。「代わりましょうか」と言った人。名前を言いかけて、言えなかった人。
私はあの夜、彼女の名前を聞かないまま、彼女を死なせた。
そしていま、その名前で呼ばれている。
「ご家族に連絡がつかなくて。緊急連絡先が、長野の施設になっていたんです」
看護師は少し声を落とした。
「それと、根津の紹介所の所長さんから、毎日お電話が来ていますよ。面会、どうなさいます?」
私はゆっくり首を横に振った。
声の違う私を、その人はきっと見抜く。いまはまだ、誰にも見つかるわけにはいかなかった。
*
テレビは、事故のことを何度も繰り返した。
運転席の女性は、着ていたコートと、ポケットの結婚指輪から、御影澪さんと確認された。
葬儀は、近親者のみで済まされた。
私のコート。私が抜いて、ポケットに落とした指輪。
あの人は私の代わりにハンドルを握り、私のコートにくるまれて死んだ。そして事故の二日後には、私の名前で焼かれていた。
誰も、確かめなかったのだ。
確かめさせなかった人がいる。御影の家では、昔から葬儀を急ぐ。お義母さまは、いつも「しきたり」と言った。
*
筆談用にと、看護師がメモ帳とペンを置いていった。
私はペンを左手で握った。
点滴の管のついた腕が重い。それでも書かなければと思った。いま書けば、終わる。この人違いを、全部ひっくり返せる。
わたしは みかげ
そこまで書いたとき、テレビの画面が変わった。
記者会見の会場だった。
黒いスーツの蒼真が、マイクの前に立っている。目の縁が赤い。フラッシュが、彼の濡れた頬を白く光らせる。
「妻は、誰よりも家族を大切にする人でした」
声が震えている。
カメラの前で、彼は一度言葉を詰まらせ、うつむき、それから顔を上げた。
「僕は、妻の分まで、陽翔を守っていきます」
会場のあちこちで、シャッターの音が鳴り続けた。
蒼真の斜め後ろに、黒いパンツスーツの女の人が控えていた。
栗色の巻き髪を、今日はきっちりと一つにまとめている。耳元で、大ぶりのパールが揺れた。
花園麗奈。
彼女はうつむいたまま、白いハンカチを蒼真に差し出した。蒼真はそれを受け取り、目元に当てた。
秘書が社長を支える、美しい絵だった。
あの夜、電話の向こうで泣いていたのは、この人だ。
私の耳には、別の声が重なって聞こえた。
配膳リフトの暗い竪穴を、降りてきた声。
――澪がいなくなれば、全部うまくいくんだから。
ペン先が紙に食いこんで、止まった。
いま名乗れば、どうなる。
病院は家族に連絡する。生きていた妻のもとへ、真っ先に駆けつけるのは夫だ。
私はこのベッドから、自分の足で立つこともできない。声も出ない。証拠のレコーダーは、あの家の地下に置いてきた。車は燃えた。
そして、陽翔。
陽翔は、法律の上では私の子だ。
あの子が一歳のとき、私は養子縁組の届に、自分の名前を左手で書いた。
けれどいま、あの子の手を握っているのは蒼真だ。私が名乗った瞬間、蒼真は何をするだろう。妻が「記憶」を持って帰ってくると知ったら。
画面の中で、蒼真がもう一度深く頭を下げた。
左手首で、私が贈った腕時計が光った。
私はメモ用紙を破り取った。
「わたしは みかげ」と書いた紙を、手の中で握りつぶす。固く、小さく、爪が手のひらに食いこむまで。
喉の奥で、声にならない音が鳴った。
泣いているのか、叫んでいるのか、自分でもわからなかった。
あの人は、私を殺そうとした。
そしてカメラの前で、私のために泣いている。
*
その日の夕方、私は握りつぶした紙を、テーブルの上の免許証の下に押しこんだ。
佐伯凛さん。
声に出せないまま、私は写真の彼女に呼びかけた。
ごめんなさい。少しだけ、あなたの名前を貸してください。返すときは、必ず、あなたの名前をきれいにして返します。
勝手な願いだとわかっていた。
彼女は、もう何も言えない。
消印のない封筒を、私はもう一度手に取った。
大貫先生。凛さんが、たぶん一番に知らせたかった人。採用が決まったら投函するつもりで、切手まで貼って持ち歩いていたのだろう。
この手紙も、いつか必ず届けます。
私は封筒を、櫛と一緒にバッグの内ポケットへしまった。
廊下で、ワゴンの車輪が鳴った。
ノックの音がして、看護師が顔をのぞかせる。いつもより少し、声が明るかった。
「佐伯さん、よかったですね。お客様ですよ」
私は首を傾げた。
私に会いに来る人など、いるはずがない。佐伯凛にも、御影澪にも。
「御影様が、お見舞いにいらしてます。事故に遭われた奥様の、ご主人だそうで」
足音が近づいてくる。
革靴の、少し右に重心の寄った歩き方。三年間、毎晩、玄関で聞いてきた足音だった。
ドアが開いた。
白い花束を抱えて入ってきたのは、私を殺そうとした夫だった。
コメント
1件
ああもう…第2話、心臓ぎゅうぎゅうで読んだよ😭💔 佐伯凛さん、自分の命を差し出すようにして主人公を生かしたんだね…。名前も聞けなかったまま、代わりにその人生を生きろって言われてるみたいで切なすぎる。免許証の写真の笑顔がもう涙腺やばい。 それに蒼真、カメラの前で泣いてるのに裏では♡♡♡うとしてたって…震える。最後の「白い花束を抱えて入ってきたのは、私を♡♡♡うとした夫だった」で椅子から落ちそうになった、続き早く読みたいです…!😭🌸