テラーノベル
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白い花束は、百合だった。
蒼真が一歩近づくたびに、甘く重たい匂いが病室に広がっていく。
私は掛け布団の下に、左手をそっと滑りこませた。人差し指の古い傷を、この人は見たことがある。
「突然すみません。御影蒼真といいます」
彼はベッドの脇に立ち、深く頭を下げた。
明るい茶色の髪が、少し伸びている。目の下に、薄く隈があった。
「妻と一緒に、事故に遭われた方ですよね。……妻を、亡くしました」
知っている。
あなたが、そう決めたのだから。
蒼真は看護師から花瓶を借りて、自分で百合を活けた。
白い花びらの奥から、オレンジ色の花粉がこぼれる。
「妻の祭壇も、百合にしたんです。白くて、きれいでしょう」
付き合って最初の私の誕生日にも、彼は百合を抱えてきた。
私はくしゃみを繰り返しながら笑って、「私、百合だけはだめなの」と言った。彼は「ごめん、覚えとく」と言った。
結婚して三年。
彼は一度も、覚えなかった。
*
蒼真は丸椅子を引き寄せて座った。
組んだ手の左手首に、あの腕時計が巻かれている。文字盤の小さな傷まで、私は覚えていた。
「お加減はいかがですか。何か、必要なものはありませんか」
私は首を小さく横に振った。
彼の目が、ベッドのテーブルに落ちた。
凛さんの免許証が置いてある。その下に、私が握りつぶした紙の玉がのぞいていた。
わたしは みかげ。
蒼真は免許証を手に取った。
「佐伯凛さん。……長野の方なんですね。松本の旅館に、長くお勤めだったと母から聞きました」
私は曖昧にうなずいた。
目は、テーブルの上の紙の玉から離せなかった。
「あ、これ、ゴミですか。捨てておきましょうか」
彼の指が、紙の玉に伸びた。
私は右手で、それをつかんだ。
自分でも驚くほど速かった。点滴の管が引っぱられ、スタンドががたりと揺れる。
蒼真が、少し目を丸くした。
私は紙の玉を握ったまま、首を横に振った。
それから、テーブルのメモ帳に右手で、震える字を書いた。
だいじな メモ
「……ああ、すみません。勝手に」
蒼真は免許証を元に戻した。
それ以上、何も聞かなかった。彼は昔から、他人の持ち物にも、他人の話にも、あまり興味のない人だった。
私は布団の中で、紙の玉を握りしめていた。
手のひらに、汗がにじんでいた。
「うちには、四歳の息子がいるんです」
彼は少し笑った。疲れた笑い方だった。
「息子は毎朝、まだ妻の部屋に行くんです。誰もいないベッドの横で、ずっと待ってる。ママが起こしてくれるって、約束したからって」
掛け布団の下で、左手の爪が手のひらに食いこんだ。
耳ぽんぽん、二回。
あの子は、まだ約束を守っている。
「かわいそうで、見ていられなくて」
蒼真は目元を指で押さえた。
私は彼の横顔を見ていた。その指の下で、目は少しも濡れていなかった。
彼は少しためらってから、身を乗り出した。
「一つだけ、伺ってもいいですか」
目が合った。
彼の目は、包帯に覆われた私の顔を見ていなかった。顔の奥の、もっと別のものを見ようとしていた。
「事故のこと、何か覚えてますか」
病室の暖房の音が、急に大きく聞こえた。
ここで首を縦に振れば、どうなるだろう。
この人は泣くだろうか。それとも、もう一度ブレーキを誰かに頼むだろうか。
私は喉に力を入れた。
焼けた奥のほうで、何かが引きつれる。痛みで涙がにじむ。
「……な、にも」
事故のあと、はじめて口から出た言葉だった。
低く、かすれて、自分のものとは思えない声。
最初の言葉が、夫への嘘になった。
「何も、覚えていないんですか」
私はもう一度、首を振った。
蒼真の肩から、ふっと力が抜けるのがわかった。
ほんのわずかな動きだった。三年間そばにいなければ、見落としていただろう。
「……そうですか。無理もないです。あんな事故で」
彼は優しい声で言い、えくぼを浮かべた。
私が好きだった顔だ。いまは、その笑顔のどこを見ればいいのかわからなかった。
*
「実は、母から伝言があるんです」
蒼真は膝の上で手を組み直した。
「佐伯さんは、あの日、うちの母の面接を受けてくださったんですよね。母は、来月から来ていただくつもりだったと」
私は黙ってうなずいた。
そういうことになっている。私が、そういうことにした。
「母が言うんです。生き残った方を放り出したら、御影の名に傷がつく、と。入院の費用は、こちらで持たせてください。それから、お体が治ったら、約束どおりうちで働いていただけませんか」
お義母さまらしい、と思った。
あの人は昔から、人の命より先に家の名前を口にする。
「家のことは、ずっと妻に任せきりでした。息子もまだ四歳で……」
蒼真は窓の外に目をやった。
冬の午後の、薄い日差しが差しこんでいる。
「妻の一周忌までには、家を落ち着かせたいんです。来年の十一月二十日までには」
一周忌。
私の。
彼は立ち上がり、掛け布団の上に出ていた私の右手に、そっと自分の手を重ねた。
温かかった。三年間、毎晩握ってきた手と同じ温度だった。
「どうか、お大事に。また来ます」
彼が出ていったあとも、右手の甲に体温がしばらく残っていた。
私は布団の下で、左手の拳を握りしめていた。
*
一時間もしないうちに、首筋が熱くなってきた。
包帯の縁からのぞく首と、腕の内側に、赤い発疹が浮き上がっている。
百合だ。
ナースコールを押すと、看護師が飛んできて、花瓶ごと百合を運び出した。
「アレルギーだったんですね。ごめんなさい、気づかなくて。カルテに書いておきますね、百合はだめって」
私はかゆみに耐えながら、小さくうなずいた。
見ず知らずの看護師は、一度で覚えた。
夫は、三年かかっても覚えなかった。
「それにしても、御影さんって素敵な方ですね」
看護師は薬のチューブにふたをしながら言った。
「奥様を亡くされたばかりなのに、一緒に事故に遭った方のお見舞いにまで来てくださるなんて。ナースステーションでも、みんなで話してたんですよ。テレビで見たとおりの人だって」
私は黙って、天井を見ていた。
テレビで見たとおりの人。そう見えるように、あの人はずっと生きてきた。
かゆみ止めの薬を塗ってもらい、看護師が出ていくと、ドアが少しだけ開いたままになっていた。
廊下の向こうから、聞き慣れた声がした。
蒼真だった。
まだ帰っていなかったのだ。エレベーターホールの手前で、誰かと電話をしている。
私は息を殺した。
動けない体で、耳だけを廊下へ向ける。
「……ああ。いま会ってきた」
低い声だった。カメラの前の声とも、病室での声とも違う。
私だけが知っている、家の中での彼の声。
「顔は包帯でわからない。声もほとんど出ない。……うん。何も覚えてないってさ」
小さな笑い声がした。
「大丈夫だ。あの女は何も覚えてない」
足音が、少しだけこちらへ戻ってきた。
私は目を閉じ、眠っているふりをした。心臓の音が、ドアの外まで聞こえる気がした。
足音は、ドアの手前で止まった。
数秒。それから、また遠ざかっていく。
「……念のため、手元に置く」
エレベーターの扉が開き、閉まる音がした。
私は暗くなっていく天井を見つめていた。
あの人は、私を雇うのではない。見張るのだ。いつか私が何かを思い出す、その日のために。
#サレ妻
都築七美
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赤井 里会
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ゆうき
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コメント
1件
ああ、第3話……すごく引き込まれました。 百合のアレルギー、夫は3年かけて一度も覚えなかったのに、看護師さんが一度で「百合はダメですね」ってメモしてくれる描写がもう、胸に刺さりました。 それと最後の電話のシーン。「あの女は何も覚えてない」って笑う声、病室で見せていた優しい夫の顔とのギャップが本当に怖くて。手元に置く、って……見張るためですよね。 黙って嘘をつき続ける主人公の静かな強さに、続きが気になって仕方ないです。更新、楽しみにしていますね🌷