テラーノベル
アプリでサクサク楽しめる
雫石しま
コメント
0件
👏 最初のコメントを書いて作者に喜んでもらおう!
私は3ヶ月でネットセラピストの資格を取った。
これも拓也さんがクリニックのシフトを調整してくれたおかげ。本当に、感謝しかない。YouTubeも順調で、スローライフ系の案件が入るようになった。給料は東京で社畜してた頃より増えた。もう、笑っちゃうくらい。
ネットセラピストはオンラインで心の相談に乗る仕事。ビデオ通話は抵抗ある人が多いから、電話とメッセージだけ。初回無料、2回目からは2時間で2,980円。重い症状の人は拓也さんが見てくれるから、心強い。縁側に座ってスマホのカレンダーを見ながら、ふと笑みがこぼれる。
朝の白山が今日も綺麗で、軒下の干し柿がゆらゆら揺れてる。資格の通知メールが来た日は、拓也さんが昼休みに駆けつけてきて、「おめでとう、里奈。ネットセラピストのRINA、誕生だな」って頭を撫でてくれた。あの瞬間、胸が熱くなって、涙を堪えるのに必死だった。今はもう、毎週のように予約が入る。
「社畜のストレスで眠れないんです」
「人間関係が怖くて……」
そんなメッセージが来るたび、あの頃の自分が重なる。私も、誰かに「大丈夫だよ」って言ってほしかった。だから、電話でゆっくり聞いて、「今はつらいけど、少しずつ変わっていけますよ」って伝える。
2時間で2,980円。安いって思う人もいるかもしれないけど、私には「ありがとう」の対価だ。YouTubeのコメントで「里奈さんの声に救われた」って見ると、これでよかったんだって思う。
スローライフ案件も増えて、村の古民家リフォームのPR動画や、おばちゃんたちと味噌汁作る動画とか。給料が東京時代を超えた月は、拓也さんと二人で祝杯した。
「里奈、勝ち組だな」って拓也さんが笑って、「拓也さんのおかげです」って私が返す。
今朝もメッセージカウンセリングが3件入ってる。
1件目は「転職を考えてるけど勇気が出ない」30代女性。「まずは小さな一歩からで大丈夫ですよ。私もそうでした」って返信した。
2件目は「孤独を感じて夜眠れない」20代男性。電話でゆっくり聞く予定。
3件目は「家族との関係がうまくいかなくて……」重そうなら拓也さんに相談する。拓也さんはいつも「里奈の判断でいいよ。でも無理はするな」って言ってくれる。本当に、心強い。
メモ帳に今日の予定を書く。
・午前:クリニック受付
・午後:ネットセラピスト予約3件
・夕方:YouTube編集(スローライフ案件納品)
・夜:拓也さんと干し柿の残り食べながら話す
最後に小さくハートを描いて、慌てて消す。でも、もう隠さなくていいかも拓也さんも隣で同じように笑ってるから。
私は今、ネットセラピストで、YouTuberで、村のクリニックで働く里奈になった。給料も増えて、心も満たされて、これ以上ないくらい勝ち組。最高じゃん。本当に、毎日が夢みたい。
◇◇◇
ピコン。
今日の最初の予約。40代男性。口コミで私のサイトに来たらしい。相談内容は「職場の人間関係がうまくいかない」。初回無料だから名前は聞かない。電話でのカウンセリングを希望する。
「よろしくお願いします」
「よろしくお願いします、それでどうなさいましたか?」
相談者は、緊張気味で、一呼吸おいてボソボソと話し始めた。
「最近、部下が次々辞めて俺のせいだって言われる。でも俺はただ成果を出せと言ってるだけだ。みんな甘えすぎなんだよ」
その声で、わかった。田辺チーフだ。私の元上司。パワハラで毎日「おい、伊藤!」って呼び捨てにしてた人。心臓が鷲掴みにされて、耳が水の中に沈んだみたいになる。
でも、声は掠れてて、疲れきってる。昔の上から目線のトーンじゃない。
「それは本当に部下の甘えでしょうか? あなたが部下に何を求めすぎているか、一度振り返ってみませんか? たとえば、毎日深夜2時まで残業を強いること……それで得られるものは、本当に『成果』だけですか?」
田辺チーフは一瞬、息を呑む。
「……どうしてそんなこと知ってる? 俺の部署のことか?」
「相談される方の話は、だいたい似ています。あなたが今一番失っているものは、何だと思いますか?」
「失ったもの?」
「……はい」
「俺は悪くないはずなのに、なぜ誰もついてこないんだ」
自己嫌悪を吐露し始めた。私は決して正体を明かさず、質問で田辺チーフの罪悪感を掘り起こすだけ。あの頃の私は、こんな言葉1つで潰されていた。もう二度と、あの恐怖に戻らない。
「なぜだ」
田辺チーフの声が震え始める。
「最近、会社で孤立してる……上からも目をつけられてる気がする」
「それは、あなたがこれまで他人に与えてきたものを、返してもらっているだけかもしれませんね。」
一瞬の間。
「この声、どこかで聞いたような」
「……お時間です。また何かあればご相談くださいね」
私は慌てて電話を切った。静寂が訪れる。あの時、言えなかったことが言えた。スマホを握っている指が震える。
メモ帳を開いて、今日の記録に書く。
「初回相談:職場の人間関係。相手は過去の上司」
スマホを置いて、縁側に座り込む。白山が静かに見下ろしてる。胸の奥で、何かがぽきっと折れたような、でも軽くなった感覚。あの頃の私は田辺チーフに潰されるために生きていたわけじゃない。自分で立ち上がるために生きていた。そして今の私がいる。月の光が私を優しく包んだ。
◇◇◇
私はいつものように、縁側でノートパソコンを開いていた。ネットセラピーの最終セッションを終えた直後。田辺チーフからの最後のメッセージが届いていた。
田辺明久:
もう……限界だ。会社を辞めることにした。
あの声、伊藤……お前だったんだな。
全部、わかったよ。
俺が悪かった。
謝っても意味がないだろうけど……すまなかった。
私は画面をじっと見つめる。指が一瞬止まり、返信欄にカーソルを置く。しかし、結局何も打たなかった。ただ、静かに「終了」ボタンを押した。
数日後。
病院の事務室で、拓也がコーヒーを淹れて持ってきてくれた。
「里菜、なんか……顔が穏やかになったね。最近、セラピーの依頼で何かあった?」
「うん。最後のクライアントが、ちゃんと自分で決断してくれたみたい。」
拓也は少し不思議そうに首を傾げるが、それ以上は聞かない。
元同僚の女性から、DMが届いた。彼女も田辺チーフから無理難題を押し付けられていた一人だ。
佐々木:里菜さん……高橋課長、結局辞めちゃったんですよ。
なんか、急にメンタル崩して……今は実家に引きこもってるって噂です。
私たち、みんな解放された感じで……里菜さんがいたら、きっと喜ぶと思います。
「そうなんだ……」
庭で一人、落ち葉を掃く。風が静かに通り抜ける。怒りも喜びもほとんどない。ただ、静かな充足だけが残っている。復讐なんて、思ったより小さかった……私がここを選んだことが、一番の逆転だったんだ。
拓也が坂道を歩いてくる。手には、立派な白い大根。私は箒を置いて、ゆっくりと歩み寄る。
「コーヒー飲みますか?」
「うん」
言葉少なに、並んで縁側に座る。コーヒーの湯気が、秋の空に溶けていく。