「うわああああ!!」
昼下がりのビル街、一際小さくかつ古ぼけた古本屋の二階、怪しげな薬品が所狭しと散乱した第4実験室に私の叫びが響き渡る。
「……どうした」
「蜘蛛蜘蛛蜘蛛! 博士っ何かありません!? 殺虫剤! そう殺虫剤ありましたよね!?」
ビーカーとフラスコ、それに緑の液体の入ったメスシリンダーを掻き分けて、先日偶然にも存在に気が付いた殺虫剤を手に取る。取ろうとした際に何らかの器具を机から落下させてしまったが、そんな場合ではない。私はこの八本の足を持つ昆虫とも言えぬ生き物を駆除せねばならんのだ。止めたって無駄だ。
正常に動作するか一瞬確かめて、狙いを定める。
「……っ!」
渾身の一撃を喰らった蜘蛛は、すぐに力無くはらりと壁から落ちた。落ちた先はよく分からない液体が入ったビーカー。その瞬間仄かに嫌な煙が発生した気がするが、恐らく気のせいであろう。
何故殺されると分かって人前に姿を現すのか、甚だ疑問である。合掌。
「蜘蛛一匹でそこまで取り乱すこともないだろう」
後ろから投げ掛けられた声は半分は心底呆れていて、半分は全く興味が無さそうだった。聞き捨てならない。私はその鮮やかなオレンジの頭に反論する。
「博士には分からないでしょうけど、私に取っては一大事なんです」
相変わらず彼は手元の科学実験器具から目と手を離さない。また変な色の液体が増えた。
「と言うより君の叫びには色気も可愛げもないな」
「ほっといて下さい」
淡々と、それでいてずかずかとした失礼千万な物言いをするこの男は、残念な事に私の上司だ。顔は良いが、如何せん髪の毛は派手なオレンジだし実験室はこの通り乱雑だし、その癖部屋に鍵もかけず、人間性にもやや所ではない難がある。
加賀谷灰音、発明家兼研究家。若くして博士の称号を得たは良いが、ろくな発明品を生み出さない上にこんな人間なので学界でも変人扱いされている男だ。
しかしその腕は確からしく、先日はどこからか盾と賞状と一千万を持ってきた。とは言っても、その盾やら賞状は研究書の下に埋もれているからよくは見ていない。
最近発明したのはお菓子のパッケージの錠剤。パッケージだけでなく、錠剤もグミ状にしたらしい。ある製薬会社に依頼されて子供用に開発したと言うが、依頼人が取りに来る時には無くしていたというどうしようもない人だ。この部屋なら納得だ。
今は、趣向を変えて薬を嫌がる子供に無理矢理飲ませる器具を作っているらしい。期待はしていない。
その作業が一段落したのか、彼は一息ついて口を開いた。
「…ある時、私は蜘蛛を殺して、それが当を得たことかどうかを考えた。神は、私と同様に蜘蛛をもこの日々の生活に預からしめんと欲せられたのだ」
「?」
「世の中は理不尽だな。いや全く」
納得したように一人で首を振る。やはり、変人だと思う。
「こらぁああハイネェェエ!」
陽が空高く登り始めた頃、実験室の扉をつんざく声が開く。
「お前また変なモン作ったろ! 作ってないとは言わせねえぞ!」
警官服を着て怒鳴り散らしながらも、足の踏み場を一歩一歩確認しつつ踏み込んで来たのは、赤川警部だった。よくある光景だ。もう慣れた。蜘蛛の方が怖い。
赤川警部は博士の大学院時代の数少ない友人だ。友人と言うには語弊があるかもしれないが、面倒な上に興味もさほどないのでそういう事にしておこう。
「警部、いらっしゃいませ」
「助手!お前からもなんか言ってやれ!」
「鈴木です。鈴木菜緒」
何度も会っているのだが、なかなか名前を覚えてくれない。警官として如何なものか。
「あぁ、えっと、鈴木も言ってやれ! またこいつの発明品がな!」
お決まりのパターンである。この一連の流れを気にも留めず、博士はひたすらに古書を読んでいる。時折ずれ落ちる読書用眼鏡を直す。これもまた、お決まりである。
「『眠り姫事件』?」
取り敢えず狭苦しい部屋の一角を確保し、お茶を出す。勿論、ビーカーなんかでは出さない。れっきとした、リービッヒ冷却器だ。
「ああ、この数日ここらで頻繁に起きている」
えらくメルヘンな名前をつけたものだ。聞けば、この界隈で女性をターゲットにした通り魔的犯行が行われているらしい。
「女性に声を掛け、お菓子と偽って睡眠薬を飲ませ、気付いた頃には公園のベンチなどに寝かせられてるって話だ。ちなみに何もされちゃいない。この事件自体は捜査すれば解決しそうなものだが、問題は、おいハイネ!」
気だるそうに顔を上げる我が上司。聞いていたのか聞いていないのか、その面倒臭そうな瞳からは分からなかった。
「お前、お菓子みたいな薬を開発したそうだな……そしてそれを無くしたと」
「ああ、無くしたな」
「無くしたな、じゃねえだろ!」
憤慨。無理もない。成る程、お決まりのパターンだ。この様に、博士の発明品が本人の預かり知らぬ所で迷惑をかけているケースは度々ある。その度に赤川警部が怒鳴り散らしてドアを叩く。懲りない人だ。
「お前、毎回毎回……!」
「分かった。赤川。分かったから静かにしろ」
ぱたむ、と古書を閉じて眼鏡を外す。オレンジの髪の毛が揺れる。
「乗り気ではなかったが、女性が被害に遭うと言うのでは話は別だ。書を捨てるだけの価値が、街にはある」
そう言えば、この人について一つ説明をし忘れていた。
「僕が犯人を突き止めよう。世の女性達の為に」
とびきりの決め顔で言い放った。何を隠そうこの人、無類の女好きなのである。
赤川警部ら警察の捜査は思いの外進んでいて、犯人の潜伏エリアまで特定が出来ていた。また、被害者の女性たちの目撃証言も合わせて、犯人の風貌も分かっている。しかし、その肝心な犯人が見当たらないというのだ。 半径100キロほどの白地図を広げ、赤川警部は青ペンで円を描く。
「犯人の靴の裏に付着していたと思われる土の成分だが、この辺りではここら一帯にしかない。だから潜伏先はこの半径以内になると思われる」
「公園もいくつかあるな。しかし川の側か、雨風を凌げてもこんなリスキーな場所には潜伏しないだろう。住人たちの目もあるしな。勿論周辺の住人名簿とは照らし合わせているんだろう?」
「当たり前だっ。聞き込みも張り込みも飽きるくらいしたんだ! 住人が匿うなんてことは不可能だ」
噛み付く様に警部は博士を睨む。当然意に介さずに博士は白地図を覗き込んだ。
「ならば潜伏先はこの辺りの空き家か。僕の記憶によれば数件だったはずだが、勿論それもしらみ潰しに探したんだろう?」
「ぐ…それは…今日! 今日やるつもりだったんだ!」
ムキになる警部は意外と幼い。一つため息をついて、博士はコートラックに向かった。ばさり、と薬品の汚れが目立つトレンチコートを羽織る。
「じゃあ行こうか。数件ならばすぐ終わるだろう」
こうして、犯人捜索に私まで参加する羽目になってしまったのだった。
「此処で最後ですね・・・」
このエリアの空き家は全部で7件あった。案の定何れも無人であり、最後の空き家であるこの古ぼけた一軒家も収穫はなさそうだった。
博士も、全ての空き家をうろうろとさ迷うばかりで特筆すべき点はなかった。こうしている今もまた、「また盗まれると困る」と持ってきた例の「薬を無理矢理飲ませる器具」を手を滑らせて落としている。さっきもその前も落としていた。どうしようもない。
一通り見て回り、私たちは落胆した警部を引き摺って第4実験室に戻り、全ての空き家に赤丸を付けた白地図を広げた。
「収穫ナシですね・・・」
「おいハイネ!お前、犯人は空き家にいるって言ったじゃないか!とんだ無駄足だ!」
警部の話を聞き流しながら、当の本人は涼しい顔でアイスティーを啜っている。後ろの窓からは、ブラインドを抜け夕焼けが綺麗な光を放っていた。
「もういい、お前に頼った俺も馬鹿だった、犯人が捕まった時覚悟してろよ!場合によっちゃあ共犯だからな!」
そう捨て台詞を吐いて、警部は来た時と同じ様に勢い良くドアを閉めて帰っていった。
「…博士、今回のことには博士にも責任ありますよ。ホラ、これを機にこの部屋を」
「菜緒」
遮られた。どうしても掃除したくないようだ。白地図の空き家をその理系らしい華奢な指で指して、続けた。
「この家を管理してる不動産屋を調べろ」
「はい?」
「明日の朝まで取り付けておけ」
そう言い残すと、博士はどっかりとぼろぼろのソファに寝転がり、静かに目を閉じた。 調査自体はさほど難しくなく、すんなり終わった。翌日、調査結果を渡せば「すぐ戻る」とそのまま外出して行った。帰ってくる頃には私もお昼を食べ終わり一息ついている所だった。
「行くぞ、菜緒」
「へ?」
部屋に入るなりそんな事を言う。私は急いで口の周りを拭いて、貴重品を持った所で部屋を連れ出された。心無しか、珍しく博士は楽しそうに見えた。
「おいハイネ!なんなんだ、昨日も何もなかっただろ!?」
私と、赤川警部と、その部下の警官ら2名。この空き家前に集められたのはこれで全員の様だったが、博士によればキャストは増えるらしい。犯人の事だろうか。
この空き家は、昨日6番目に回った家だ。大分古い様で、戦後かそれ以前に建てられたらしい。人が住まなくなって2年、不動産屋もさぞ持て余していることだろう。
喚く警部を一瞥して、空き家を背にする博士はいつも通り淡々と述べる。
「そう。だから今日はそのお詫びに招待したんだ。これから」
その古びた空き家を仰ぐ様に、博士は僅かばかり微笑んだ。
「皆さんに犯人をお見せしましょう」
直ぐ様、警部が反論する。
「だから!昨日あんなに隅々まで探したろう!」
「確かに探したよ。でも探していない所もある。犯人はそこにいるんだ。・・・菜緒」 ぽん、と何かが放り投げられた。
「ライター……?」
ちりちりとした音が黒煙と共に広がってゆく。徐々に勢いをつけてきた辺りで、博士が叫んだ。
「火事だ!逃げろ!火事だぞ!!」
そう言い終わるか終わらないかの内に、消防車のサイレンが近付くのが聞こえた。あらかじめ通報しておいたとは、つくづく用意周到である。
呆気に取られている警部たちを尻目に、博士は燃える空き家を眺める。すると、中から叫び声が聞こえてきた。
「うわああああ!!」
居間の窓が割れて、中から男性があわてふためいて出てきた。
「! 犯人かっ!?」
「ああ、彼こそが『眠り姫事件』の犯人だよ」
犯人とされた男は、目の前の光景に何が起こっているか理解出来ていないようだった。そりゃそうだ。ここにいる人間、そう加賀谷灰音博士以外、何が起こっているか理解出来ていなかった。
彼が呆然としている間に消防隊が到着し、消火活動にあたった。火は思ったより早く鎮火し、空き家は半壊ほどの被害で済んだ。
「じゃあ、種明かし、って程でもないけど説明しようか」
軽く首の運動をして、博士は小さく欠伸をした。
「『ノーウッドの建築士』だ」
警官らが犯人を確保した後、私と赤川警部は実験室へと戻り、事の次第を聞く事になった。博士は淡々と話し始める。
「シャーロック・ホームズシリーズ、全編通して37作目。今回の事件とまるでそっくりだ」
下の古本屋で手に入れたのか、その本をひらつかせてビーカー等を避けた机に腰を下ろした。
「犯人が地下室に隠れていて、なかなか姿を見せない。ならば、と思って件の事件を見習ったという訳だよ。特に推理も何もしていない」「でもっ、何で地下室があるって分かったんですか?」
「床の音」
かんかん、とやや強めに床を踏む。そう言えば、何度も何度も器具を落としてた。音を確認する為だったのか。
「地下室があるのは珍しいが昭和中期に建てられ、その後改装を繰り返していたのなら納得はいくだろう。不動産屋は知らなかったようだが。だから僕はあの空き家を買い取って、折角だから世紀の探偵ホームズを真似てやろうと思った次第だ。しかし、ホームズは家は焼かなかったがな」
「んな簡単に家買うなよ……」
その通りだ。赤川警部、言ってやれ。もっと言ってやれ。
「だから言ったろう。『ミニマックス定理』だと。最小のリスクで最大のメリットを得られるのなら安いものだ」
けろり、と博士は言う。本当にどうしようもない人だ。
「さぁ、これで満足だろう、赤川。責任は取った。犯人は煮るなり焼くなり……しかしそうだな、動機には多少興味がある。後日談には期待しているぞ」
そう言って博士は再び怪しげな科学実験に勤しむため、第4研究室へと爪先を向けた。
後日、赤川警部から事件のその後を聞いた。犯人は女性の寝顔が好きで、ひょんなことから手に入れた例のグミ状の薬を様々な女性に与えたらしい。写真を撮り、コレクションするのが目的だったとのこと。あとは何もせずに公園など安全な場所へ寝かしていたという。
「・・・変人だな」
「犯人も博士には言われたくないでしょうよ」「しかし、世の女性たちが恐怖から救われたとなれば無駄骨ではなかったな」
得意気に試験管を振る博士の周りに、また刺激臭が広がる。また変な色のフラスコが増えた。
この部屋、もとい実験室を綺麗にするにはどれほどの時間と労力を要するのかと考えては溜め息を吐きつつ、メチルオレンジに染まった髪の毛を眺めた。
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