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料理の芳醇な香りに呼応してか、腹の内側がグゥと悲鳴をあげる。
空腹だ。そうであろうと歩くしかない。
周囲には武具を装備した荒くれ者達が散見されるも、この女性もそういう意味ではその内の一人と言えよう。
ここはギルド会館、その一画だ。
朝一番ということもあり、普段よりはいくらか落ち着いているが、仕事を求めて掲示板の前には人だかりが出来ている。
反対側の食堂エリアもまた、既に繁盛中だ。席の三割程度が埋まっており、傭兵達が料理を美味しそうに平らげている。
しかし、彼女は腹が減っていながらもそこを素通りし、奥の売店を目指す。
その時だった。二人の同業者とのすれ違いざまに、彼らの会話が耳に届く。
「新しいおにぎり、もう食べてみた? 海老が入ってるやつ」
「ああ。なかなかだった。切り身がプリプリしてて、マヨネーズがあえてあって」
傭兵とて人間だ。普通に腹は空く以上、可能なら朝昼晩の三食は心掛けたい。
(新しいおにぎり……。美味しそう、食べてみたいな)
歩く姿に覇気はないが、それでもこの女は傭兵だ。
若葉色の髪に艶はなく、安物の革鎧はすっかり色あせている。
庶民着はあちこちがほつれており、ハーフパンツには汚れが染みついており、不潔極まりない。
一歩進む度に後頭部で束ねられた髪が尻尾のように揺れるも、毛先は当然のようにパサパサだ。
彼女の名前はフラン。金を稼ぐため、今日も草原ウサギを狩猟するつもりなのだが、その前に昼食を買わなければならない。
今日という一日も、いつも通りのルーチンだ。
起床後、朝食も取らずにギルド会館へ足を運ぶ。
掲示板に張り出された依頼を確認するも、実力に見合った仕事は見つからず、草原ウサギの討伐に切り替え、売店に立ち寄る。
目的地は、イダンリネア王国の眼前に広がるマリアーヌ段丘。近場ではあるのだが、魔物を探して走り回る以上、狩りはどうしても長丁場になってしまう。
ゆえに昼食の用意は必須だ。ましてや朝食を抜いているのだから、さらなる断食は体調を左右しかねない。
(海老おにぎり、あるかな……)
売店に到着だ。小さなその売り場には、パンや干し肉、そしておにぎりといった携帯食がずらっと陳列されている。カウンターの向こうには中年の女性が笑顔で待機しており、傭兵組合の制服を着ていることからもここの店員で間違いない。
「いらっしゃい」
その声を聞きながら、フランは視線を動かしておにぎりの集団をゆっくりと眺める。
白く輝くそれらには、種類にもよるが中に具が詰められており、それによって値段が多少上下する。
おにぎりの前にはそれぞれ名札が鎮座してあり、そこには商品名だけでなく金額も記載されていた。
(あ、あった……けど、百二十イールもする。私には買えない……)
決して高額ではない。他のおにぎりも軒並み百イールを超えており、新商品でありながら良心的な値段設定と言えよう。
しかし、彼女は諦めるしかない。食べてみたいと一度は心の底から願ってしまったが、その口はいつもの商品を店員に伝える。
「……素おにぎり、ください」
「はい、六十イールね」
具なしを選ぶ。懐事情がそれ以外を選ばせてはくれなかった。
その上、個数は一つだけ。彼女は小食ではないのだが、一食に費やせる金額はそこまでだ。
周囲に立ち込める料理の匂いで腹を満たしながら、フランはその場を後にする。
腰の短剣は飾りではない。
生きるため。
魔物の命を奪うため。
彼女はマリアーヌ段丘を目指す。
◆
その地は勾配が緩やかな草原だ。東側は大海に面しており、西には険しい山脈が立ちはだかる。
この地の名称について、その意味を知る者はもういない。千年前の戦争は、今を生きる人間にはおとぎ話でしかないのだから。
(みんなのために、今日もがんばらないと……)
決意を胸に、彼女は走り出す。
上空二千メートルの空には灰色の雲が漂っており、傭兵は追いかけるように駆け出すも、足取りはどこか鈍く、その結果、離される一方だ。
走力だけを見れば凡人以上と言えよう。元気な子供や健康的な大人を置き去りに出来る程度には速いのだが、傭兵という枠内で比較すれば並み以下と言わざるをえない。
そうであろうと、この地の魔物なら討伐可能だ。
草原ウサギ。最弱の魔物と称されており、見た目は小動物のウサギと大差ない。二回りほどは大きいものの、前足を使わない独特な移動方法は、獣にすら劣る鈍足っぷりだ。
発達した鼻が前に突き出ており、それが人間の血液を敏感に嗅ぎ取ってみせる。
決して強い魔物ではない。武装した大人が数人で挑めば、負傷者は出るだろうが倒せる相手だ。
言い方を変えれば、傭兵や軍人以外は一人で挑んではならない。可愛らしい外見とは裏腹に、人間を殺せるほどの殺傷力をその身に秘めている。
(あ、いた。うぅ、でも二体か……。他を当たろう)
この女性は傭兵だ。等級は最下級の一ではあるものの、その身体能力は草原ウサギを単身で倒せるほどには高い。
しかし、それは一対一の時だけだ。
数十分ほど走った結果、獲物を見つけることは出来たのだが、眼前には茶色いウサギが二体、大きな耳を機敏に動かしながら警戒するように立ち尽くしている。
仲間意識がそうさせるのか、草原ウサギは同胞が人間に襲われている場合、実力差を顧みずに加勢する。
これらを乱獲したい場合、その特性を生かすことで時間短縮を狙えるのだが、今回は諦めるしかない。
この傭兵に、それほどの実力は備わっていないからだ。
(エルさんなら、余裕でどっちも倒しちゃうのにな。私って本当に情けない……)
フラン、十八歳。傭兵試験に合格して、既に二年近くは経過している。
しかし、その実力は半人前ですらない。不運にも才能がなく、それでもこうして傭兵稼業に励めている理由はとある女性と出会えたからだ。
その人物の名はエルディア・リンゼー。小さな少年と二人で活動していた、等級三の実力者だ。武器屋の娘ながら軍人をえて傭兵となり、日々、魔物狩りにいそしんでいた。
フランはその日、傭兵となるためにこの地で草原ウサギに戦いを挑むも、当然ながらあっさりと殺されかける。拾った包丁では魔物の肉を深々と傷ことは叶わず、後ろ足で蹴り飛ばされた結果、内臓破裂を引き起こし、悶絶しながらも死を覚悟する。
その時だった。
二つの声がマリアーヌ段丘を駆け抜ける。
「エルさん!」
「見えた!」
そこからは早かった。ウサギは瞬く間に硬直し、瀕死の人間を前にわなわなと震えることしか出来ない。
拘束の正体は戦技であり、その発現は長身の傭兵によってもたらされた。
ウォーボイス。これは対象の行動を制限することが可能だ。晒された対象は十秒間、使用者以外を殺傷することが出来なくなる。
「だいじょぶ? 生きてるー?」
凛とした声が問いかけるも、フランは地に伏せたまま悶えることしか出来ない。口の中は鉄の味で支配されており、呼吸すらも困難な状態だ。
一刻を争う。それを察知し、駆け付けたもう一人の傭兵が自身の鞄に右腕を突っ込む。
「フ、フランさん⁉ なんでこんなところに? い、いや、先ず手当……なんだけど、見た目以上に危険そう。門番のところまで運ぶ猶予はなさそうですし、エリクシルを使います」
「そだねー。買ってて良かった。と言うか知り合い?」
「はい、友人みたいなものです。僕の稼ぎ三か月分……、どーんと使う!」
ためらいはしない。
少年が取り出した小瓶の中では、青色の液体が波打っている。着色されたワインのようにも見えなくもないが、これは錬金術によって作られた治療薬だ。
エリクシル。経口摂取ないし患部へ振りかけることで人体の負傷をたちまち癒してくれる。その効果は回復魔と同等法ゆえ、傭兵のような危険と隣り合わせの職業には必需品と言えよう。
キュッと蓋を取り外し、地に伏せる眼下の人間をその液体で濡らす。
小瓶が空になったタイミングで彼女の全身が淡く発光するのだが、少年は未だ動かぬ負傷者を眺めつつも相棒に問いかけずにはいられなかった。
「エルさん、とりあえずそれ片づけてください」
「あ、そっか」
先ほどから騒音のように肉と肉がぶつかる音が続いていたのだが、その正体は草原ウサギが横やりを入れた女傭兵を蹴り続けていたためだ。
ピョンと跳ね、両脚で蹴飛ばす。
その人間はビクともしないため、魔物は着地後に再度同じ動作で攻撃を続けるのだが、何度繰り返そうと結果は変わらない。
本来ならば、その飛び蹴りは容易く人間を殺すことが出来る。それはフランの負傷具合で証明されているのだが、駆け付けたこの人間には通用しない。せいぜい、彼女の茶色いロングスカートを汚すことが精一杯だ。
「ほい」
この傭兵にとって、草原ウサギの攻撃はその風のようなものだ。痛くも痒くもなく、それゆえに無視していたのだが、戦技の効果時間が終われば攻撃対象が移ってしまう可能性がある。
少年がそれを危惧した以上、彼女も納得した上で草原ウサギに拳を振り下ろす。
ゲンコツのような一撃だが、命を奪うには十分な威力だ。小動物と呼ぶには少々大きなそのウサギは、頭蓋骨を陥没させられ、あっさりと息を引き取る。見た目以上に頭部の中身は破壊されており、絶命は当然と言えよう。
そんなやり取りには一切目もくれずに、もう一人の傭兵は静かにつぶやく。
「フランさん、大丈夫でしょうか?」
「どうかなー? なーんか、ウイル君の時を思い出すねー」
「あー、そうかも、しれませんね……」
二人は二人だけの思い出を振り返るも、今はそれどころではない。エリクシルを投与したにも関わらず負傷者が未だ起き上がらないのだから、次の一手が必要だ。
「門番さんのところまで運んで、キュアしてもらいましょうか」
「おっけー。私おんぶするね。鞄お願い」
「わかりました」
長身の女は大きな鞄を背負っている。このままではフランをおぶって走ることなど不可能だ。
それを相棒に託し、負傷者を背中に乗せて走り出す。
その速度は風のように速い。人間の出せる走力を遥かに上回っており、追いかける少年の脚力もまた、常識を逸脱している。
彼らが本物の傭兵であるという証明だ。肉体の強度は凡人を上回っており、足の速さ一つとっても野生動物を上回る。
だからこそ、目的地への到着もあっという間だ。
イダンリネア王国の出入り口でもある巨大な門には、軍人が二人待機しておる。不審者ないし魔物の侵入を妨げるためであり、二人の内の一人は回復魔法の使い手が選出される決まりだ。
一命を取り留めたフランだったが、そこでさらなる手当を受け、見事意識を取り戻す。
これがエルディアとの出会いだ。
傭兵が傭兵試験を手伝うというありきたりな出会いではあるのだが、そうであろうと彼女が一歩を踏み出せたことに変わりはない。
(それからというもの、エルさんにみっちりと鍛えられたんだっけ)
フランにとっては大事な思い出だ。マリアーヌ段丘で獲物を探している最中ながら、しんみりと振り返る。
実は、その記憶の中にウイルの姿はほとんど見当たらない。貧困街では頻繁に出会う一方、傭兵として活動している最中はその多くがエルディアと二人っきりだった。
フランが加わり三人で傭兵稼業に打ち込み始めた矢先、ウイルが武者修行と称して一人旅に出てしまったため、残された二人は戦力ダウンに配慮しつつ、比較的簡単な依頼で小銭を稼ぎ続けた。
しかし、新たなコンビもまた、長くは続かなかった。
エルディアの無茶な提案に対し、フランの実力や体力が全く追い付かず、二人はチームを解消、それぞれの歩幅で歩き始める。
その後、一回り成長したウイルが王国に帰還し、エルディアとコンビを再結成するのだが、フランは単独で草原ウサギ狩りを継続し続ける。
そして今に至るのだが、急成長を続ける少年とは対照的に、彼女の立ち位置は底辺のままだ。
才能の壁。
もしくは自身の壁とも言うべき地点にたどり着いてしまったがために、フランは一年以上もそこで足踏みを余儀なくされている。
どれだけ魔物を倒そうと。
トレーニングに打ち込もうと。
成長が見込めない。
つまりは、ここが彼女の限界だ。
才能がなかった。それ以上でもそれ以下でもないのだが、どちらにせよ、フランは傭兵という職業を選ぶべきではなかった。
にも関わらず固執している理由は、一重にそれ以外の生き方を知らないからだ。
草原ウサギしか狩れないのなら、それらを毎日狩り続ける。
鉄製の短剣でウサギを殺し、持ち帰って売りさばく。
売却価格は一体につき、たったの二百イール。
彼女の実力では一日で五体前後しか狩れないため、稼ぎは千イール前後か。
あまりに安い収入と言えよう。
普通の仕事なら時給が千イール前後に換算されるため、フランの生き方は不器用どころかあまりに要領が悪い。
そうであろうと、彼女はこうするしかないため、貧困街に身を寄せつつ、その稼ぎと寄付金で安いパンを購入、腹を空かせている子供達に配り続ける。
この寄付金は彼女の稼ぎを大きく上回っており、これ無しでは貧困街は成り立たない。
金銭を送り主こそがウイルだ。この少年も決して高収入ではないのだが、稼いだ金の半分をフランに手渡している。
そうする理由はシンプルだ。
ウイルもまた、貧困街に救われた一人であり、エヴィ家を飛び出してからの四年間、荒れ果てたその区画で寝泊まりしていた。
宿代は高額ではないのだが、毎日となるとおおよそ不可能な出費だ。エルディアは収入よりも中身で依頼を選ぶ傭兵ゆえ、二人組でありながら、その利点を活かすこともなく、低収入に甘んじてしまう。
もっとも、ウイルはそれを良しとしており、金が十分に稼げないのなら、野宿をあっさりと受け入れる。
元貴族でありながら、そのような苦行に適合出来た理由もまた、エルディアのおかげだろう。
旅先での野営は当たり前であり、近場に川や湖がないのなら、着替えないこともザラだった。
そういった無茶はウイルとしても本望であり、過酷な状況がこの少年を一人前の傭兵に育て上げた。
引き換えに浮浪者のような生活を余儀なくされたが、日中は傭兵稼業に勤しむ以上、眠るだけならベッドだろうと地べただろうと大差ないと自分に言い聞かせる。
イダンリネア王国の領土内には河川が二本流れており、その内の一本が貧困街を横切っていることから、そこに隠れ住む者達は川で垢や汚れを落とすことが可能だ。
ウイルも、そしてフランもそうしてきたのだが、二人は傭兵ゆえに人並以上の頑丈さを誇ることから問題ないのだが、冷水に浸れば風邪をひく子供や老人も少なくはなく、それを嫌って汚れたままの浮浪者もまた多い。
なんにせよ、暮らすには過酷な状況だ。廃棄された掘っ立て小屋が多数放置されていることから、彼らは雨風だけならしのげるのだが、国からの支援は何一つない。
強いて挙げるのなら、その地での浮浪滞在を見過ごされていることがそうなのだろう。貧困街は王族が所有する土地であり、本来ならば立ち入ることなど許可されないのだから。
つまりは、彼らは作為的に放置されている。
最底辺の身分を用意することで、王国の民は自分達が優遇されていると勘違いしてしまう。
同時に不平不満がある程度緩和されるのだから、貴族や英雄、そして王族の国策は成功していると言えよう。
貧困街。王国の片隅にひっそりと存在する、見捨てられた者達の終着点。
フランもまた、その内の一人だ。親を魔女に殺され、行き場を失った悲しい過去の持ち主。
魔女を恨む暇などなく、今日もマリアーヌ段丘を走り続ける。
◆
緑色のポニーテールを揺らしながら、草原の絨毯から起き上がる。
休憩も兼ねた昼食を終えるも、腹が全く膨れなかった理由はおにぎり一つでは足りないからだ。
それでもフランは走り続ける。獲物を見つけるためには、自分の足で進むしかないのだから。
午前の稼ぎは、草原ウサギ一体だけ。運悪く同業者もそれらを狩っていたため、午後は普段以上に探さなければならない。
(がんばらないと……)
実は、そこまで自分を追い込む必要はない。
つい先日、ウイルから四十万イールを超える支援があったばかりだからだ。
少年はパオラとの二人旅にて、魔物に殺されたネイグリングの四人組から遺品を回収したのだが、その売却によって得られた臨時収入を貧困街に全額寄付した。
そうした理由は、エルディア探しやパオラの父親探しを優先したことで貧困街を疎かにしてしまったという罪悪感に起因するのだが、それだけではない。
今後もイレギュラーな用事が増えそうだと予想し、以前のような定期的な金銭的支援が困難だろうと考え、このタイミングでフランに大金を託すことにした。
ゆえに、貧困街の食事事情はしばらく安泰なはずだ。
それでも、彼女は魔物狩りを継続する。ウイルに頼ってばかりいてはダメだと理解しており、一イールでも稼ぐことが大事だと、その若さで理解している。
単なる小銭かもしれないが、フランは汗を流してこの地を駆ける。
残念ながら、草原ウサギは彼女だけの獲物ではない。同じ目的を持った傭兵がいれば、必然的に早い者勝ちの取り合いに発展してしまう。
午前中は競争に負けてしまったが、たった一つのおにぎりながらも英気を養った以上、午後は太陽の光を浴びながら精一杯走るつもりだ。
その時だった。
静かな平原に、不釣り合いな騒音が鳴り響く。
パンパンパン、と立て続けに三回。何かが破裂したような甲高い音ゆえ、方角の特定は容易だ。彼女は引き寄せられるようにその方向を目指す。
急ぎながらも警戒していたため、数十秒近くを要したが、フランは状況を即座に察して見せた。
音の正体は銃声だ。その証拠に、行商人のような男が右手に拳銃を握っており、彼の正面には草原ウサギが血の池を作り出している。
肩で息をしている理由は、大きな背負い鞄が重いだけではないはずだ。魔物に襲われ、必死だったのだろう。拳銃を握るその手もまた、小刻みに震えてしまっている。
「大丈夫ですか?」
フランは声をかけずにはいられない。討伐が完了していることと商人に外傷が見当たらないことから、問題はなさそうだが、それでも一抹の不安を覚えてしまう。
「ん? あぁ、傭兵さんか。なんとかなったよ……。まさかウサギに襲われるとは、肝が冷えた。十歳くらいは老けた気がするよ」
「銃……、やっぱりすごい……です」
この兵器は錬金術の極致と言えよう。見た目こそ小さな鉄の塊だが、内部構造も含めて画期的な発明品だ。
トリガーを引くことで弾丸が発射、それが音速以上の速さで空気中を突き進み、標的に着弾後、肉や内臓をえぐり貫く。その威力は生物を殺傷するには十分な上、弓やボウガンと比べると遥かに扱いが容易く、金持ちや商人は護身用にこぞって購入した。
その結果、割を食った存在こそが傭兵だ。
イダンリネア王国と南の村を行き来する行商人は、移動の際に傭兵を雇うのが一般的だった。
しかし、銃の登場により状況が変わる。傭兵の助けなく魔物を返り討ちに出来るのだから、決して安くはない賃金を彼らに払う必要がなくなった。
銃の発明は九百九十四年、今から二十年以上前の出来事だ。
以降、傭兵は護衛という仕事を失い、その人数を減らすこととなる。
「ハハ、しかし三発も撃ってしまった。赤字にはならないが、痛い出費だよ。死なずに済んだのだから後悔はないが、次からはもっと気を付けないといかんな」
一般に出回っている拳銃はそれ自体が非常に高価なのだが、それに装填する銃弾もまた、安くはない。二重の意味で庶民には手が出ない代物なのだが、今回の論点はそこではないと、彼女は既に気づいている。
「どうしてウサギに襲われたんですか? 不要に近づかなければ大丈夫なのに……。あ、もしかして」
「ああ。実はついさっき壮大に転んでしまってね。ほら、左肘が血だらけ、思い出したらイタタタタ……」
男が着ている麦茶色の上着は、その部位だけがじわりと赤く染まっている。擦りむいたにしては大げさな出血だが、手当をしなければ無理もない。
この事態がさらなる悲劇をもたらした。
マリアーヌ段丘を縄張りとする草原ウサギだが、実は人間の血の匂いを嗅ぐと凶暴性を高めてしまう。物静かな習性は鳴りを潜め、魔物らしく襲い掛かってくる。
それでも今回の敗者はウサギの方だった。この男が銃を携帯していたからだが、決して圧勝というわけでもない。
一発目は当たらず。
二発目は大きな耳をかすめるも、致命傷には至らない。
三発目が見事その胴体を貫いたため、決着がついたが、もしもこれが外れていた場合、殺されていたのは商人の方だったのかもしれない。
「王国方面のウサギは乱獲されていますが、念のため気を付けてください。それとこのウサギ、不要だったらもらってもいいですか?」
「ん、もちろんだとも。それじゃ、陽が暮れる前に着きたいから、私はこれで。君の方こそ気を付けて」
イダンリネア王国はまだ遠い。太陽は大空の頂点で輝いているが、立ち話を続けていては時間が足りなくなってしまう。男は彼女に背を向け歩き出すも、率直な第一印象を思い浮かべずにはいられなかった。
(随分と頼りない傭兵だったな。痩せていたし、身なりもこ汚いというか……。レザーアーマーも色褪せて今にも朽ちてしまいそうだったし。あぁ、貧困街の子か……)
大人ゆえ、口には出さなかったが、憐れむようにそう分析してしまう。
もっとも、その全てが正解だ。
フランの実力は底辺であり、服と防具には長年の汚れが染みついている。
貧困街。身寄りのない人間の行き着く先であり、王国の闇と言っても差し支えない。
そこに隠れ住む彼女が清潔なはずもなく、その佇まいはどうしても浮浪者のようになってしまう。
(やっと二体目……。もう三体は欲しいな)
それでも収入は千イールだけだ。少なすぎる稼ぎだが、受け入れるしかない。
血抜き後、皮製の収納袋に死体を入れ、背負い鞄にしまいこむ。先は長いが、腹を空かせている子供達が待っているのだから、狩りは継続だ。
その後も走り続け、得られた成果は合計四体。草原はまだまだ明るいが、彼女に長居という選択肢は存在しない。帰りが遅くなってしまうと、その分、夕食も遅れてしまうからだ。
おおよそ一時間かけて帰国を果たしたフランは、その足で真っすぐ精肉店を目指す。
店員の女性に革袋を四つ手渡し、代金の八百イールと空となった袋を受け取った彼女だが、帰路に着こうとしたその瞬間、通行人に呼び止められる。
「あ、フランちゃん! 大変だよ! 建物がいくつも崩れちゃって……」
「……え?」
ふくよかな女性からもたらされた情報に思考が停止しかけるも、そこからは早かった。人混みをかきわけそこを目指す。
貧困街は大通りからも商店街からも離れており、立地的には港のすぐそばだ。つまりは不便な場所に位置しており、だからこそ放置されている。
そこを目指したフランだったが、到着と同時に言葉を失ってしまう。
田の字のように隣接する四つの廃屋が、原型を忘れさせるほどに倒壊している。一つが倒れ、ドミノ倒しのように他を巻き込んだのだろう、見るも無残な状況だ。
力無く膝から崩れ落ち、嗚咽を漏らしてしまう。
これら掘っ立て小屋には十を超える子供達が身を寄せていた。全員ではないはずだが、その多くが下敷きになっていることは想像に難くない。
即死か、押しつぶされながら今も苦しんでいるのか。どちらであろうと悲劇でしかないのだが、フランは涙を拭うと同時にゆっくりと立ち上がる。
「今、助けてあげる……」
自分達が何をしたというのか。少なくともこのような仕打ちは受け入れがたい。
そうであろうと起きてしまった事実は曲げようがなく、唇を噛みしめながら木材を一つ一つ取り除くことから始める。
その光景を見かね、駆け付けていた治維隊も加勢し、全ての死体は夜が更けるより前には発見された。
生存者は一人もいない。救いようのない現実がフランを打ちひしがらせ、泣き声が夜の闇に溶けていく。
「うぅ、なんで、こんなことに……。ひどいよ、こんなの……」
子供達は二度と動かない。体温も随分と下がっており、まるで仕留めた後の草原ウサギのようだ。
並べた死体を前に、フランは謝罪するように泣き崩れる。
貧困街の建物はその多くが朽ちかけており、だからこそ浮浪者以外は寄り付かない。
今回はその危険性が牙をむいただけなのだが、そうであろうと彼女は声を詰まらせ大粒の涙を流す。
緑色の髪は汚れ、四肢も泥だらけだ。手のひらや衣服を赤く染めた血液は子供らのものであり、この場に彼女を拘束する理由は疲労や空腹だけではない。
すがるように泣き続けるフランだが、ゆっくりと近づく足音が、そんな彼女へ話しかける。
「あなたのせいではありませんよ」
包み込むような、寄り添うようなその声が、嗚咽をわずかに和らげるも、フランは未だに顔を上げることが出来ない。
「だけど……、この子達は……」
死んでしまった。その事実が彼女をどこまでも悲しませる。
息絶えたこの子供達とフランは家族も同然だった。毎晩、一食限定ながら食事を振る舞ってきたのだが、若い命はあっさりと摘み取られてしまった。
「ここの子供らは被害者なのです。悪いのはそう、この国そのもの。あなたは決して、悪くありません」
声の主は真っ赤なローブを身にまとっている。フードを深々と被っていることからその顔はうかがい知れない。
歩みを止め、頬を濡らす弱者の肩にそっと手を添えると、慰めるように語りかける。
「我々は救われるべきなのです。そして、女神様に願えば、いつの日か必ず叶います」
女の声が闇に溶け込むも、この瞬間、フランは彼女の正体を静かに理解する。
「あなた……、女神教の人?」
「ええ。どうでしょう、歪んでしまったこの世界を、正しい方向へ導いてはいきませんか? あなたは間違ってはいないのです。そして、救われるべきなのです。女神様を信じ、敬い、祈りを捧げれば、絶対に実現します。幸せになれるのです」
甘い誘惑だ。
もしも無知だったら、このまま賛同していたかもしれない。
「いえ、私には必要ない……です」
否定する。そう出来た理由は、ウイルのおかげだ。
女神教。教養のないフランだが、この集団については聞かされていた。
だからこそ、己の意思で勧誘を払いのける。
「そうですか……。もしも正気を取り戻すことが出来たのなら、我々の元をお訪ねください。では……」
それを最後に、足音もなく女の姿が消えてなくなる。
残されたのは傭兵と多数の死体だけ。
街灯もないこの場所は月夜だけに照らされながら、闇と同化するように静寂を取り戻す。
(エルさん、ウイル君……。心が痛いよ……)
そうであろうとここには彼女だけ。死体達は沈黙を貫いたまま、硬い地面に横たわっている。
いっそ女神教に加えてもらえば、この痛みは消え去っていたのだろうか?
否。そうでないと彼女は知っている。
傭兵と女神教はいがみ合っており、正しくは一方的に罵られているのだから。
その実態は謎が多く、フランも聞かされている情報しか知りえていない。
貧困街に生まれた、新たな悲劇。その事実に押し潰されながら、傭兵は静かに泣き続ける。
救いの手は差し伸べられない。
そう諦めかけるも、彼女自身がそんな感情を吹き飛ばす。
知っている。
フランはその少年のことを知っている。
ウイル・ヴィエン。今は本来の名前を取り戻したその少年こそが、この区画の救世主足りえると、誰よりも知っている。