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最初にその旋律を聞いた夜のことを、彼は忘れていない。
丘の上は風が強く、草が擦れる音が静かに広がっていた。遠くの町の灯りは頼りなく揺れ、空には無数の星が散らばっている。
「ほら、あれが一番明るい星」
母の指が夜を切り取る。
彼は目を細めて、その一点を探す。
どれも同じに見えるのに、不思議と“それ”だけはわかった。
「きらきらひかる、おそらのほしよ」
歌は短く、単純で、どこか頼りない。
けれどその旋律は、彼の中に静かに沈んでいった。
ド、ド、ソ、ソ、ラ、ラ、ソ。
それが、すべての始まりだった。
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やがて彼はピアノに出会う。
鍵盤に触れた瞬間、音は思っていたよりも不安定で、形を持たないものだった。押す強さ、速さ、ほんのわずかな違いで、同じ音がまるで別の表情を見せる。
「もっと歌って」
教師はそう言った。
彼は戸惑う。
音は音でしかないはずなのに、そこに“歌”があると言われる。
試しにあの旋律を弾く。
ド、ド、ソ、ソ――
「違うわ。飾ってみて」
飾る、という意味がわからないまま、彼は音を増やしていく。
細かく分かれ、流れ、転がるように続く音。
すると不思議なことに、形が変わっても、旋律は消えない。
どれだけ崩しても、どこかに残っている。
それはまるで、星のようだった。
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彼は町を出る。
列車の窓から見る景色は流れ続け、同じ場所には戻らない。
新しい街で出会う音楽もまた、形を固定しないものだった。
同じメロディでも、弾く人が違えば意味が変わる。
場所が変われば、響きも変わる。
夜空さえ、少し違って見えた。
それでも彼の中には、あの旋律があった。
どこへ行っても、消えずに。
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仲間と出会ったことで、音楽はさらに変わる。
「そんな固くなるなって」
笑いながら弾く音は軽やかで、跳ねるようだった。
旋律は遊び始める。
彼も次第に笑うようになる。
音を間違えてもいい、ずれてもいい。
音楽は、正しさだけではないと知る。
星は遠いだけの存在ではなく、
手を伸ばせば届きそうなものへと変わっていった。
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だが、ある日、音は冷たくなる。
同じ旋律が、暗く、重く、沈む。
短調。
その変化を、彼は初めて“痛み”として理解する。
母が倒れたという知らせは、唐突だった。
病室の空気は静まり返り、機械音だけが規則的に続く。
「星、見てる?」
その問いに、彼は答えられない。
窓の外には星がある。
だがそれは、あまりにも遠く、届かないものに思えた。
同じ旋律が、こんなにも違う意味を持つことを、彼は初めて知る。
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音楽から、彼は離れる。
鍵盤に触れれば、すべてを思い出してしまう。
だから触れない。
それでも旋律は消えない。
むしろ、静けさの中でよりはっきりと響く。
夜、空を見上げる。
星は変わらず瞬いている。
「なんで消えないんだよ」
問いは宙に溶ける。
何もかも変わったはずなのに、
あの光だけが変わらない。
それが、どうしようもなく苦しかった。
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ある日、彼は偶然、鍵盤に触れる。
意図はなかった。
ただ、指がそこにあったから。
一音。
それだけで、何かが動く。
続けて、もう一音。
やがて旋律が戻ってくる。
ド、ド、ソ、ソ――
だがそれは、以前のように整ったものではない。
遅く、揺れ、不完全だった。
それでも彼は思う。
「これでいい」
完璧である必要はない。
ただ、そこにあることが大事なのだと。
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再び人と音を重ねる。
連弾。
二人で一つの旋律を分け合う。
ずれ、ぶつかり、それでも少しずつ合っていく。
一人では見えなかったものが見える。
音楽は、孤独なものではなかった。
星もまた、一つではなく、いくつも集まって形を作る。
彼はようやく、それを受け入れる。
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やがて彼は舞台に立つ。
技巧的で華やかな演奏。
速く、正確で、隙がない。
観客は満足する。
拍手が響く。
だが彼の中には、空白があった。
「これが俺か?」
完璧であることと、本物であることは違う。
そのことに気づいたとき、
音楽は再び崩れ始める。
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彼はまた、離れる。
だが今度は違った。
旋律を消そうとは思わない。
壊れてもいい、変わってもいい。
それでも残るものがあると知っているから。
夜空を見上げる。
星は相変わらず遠い。
だが、もう拒む気にはならなかった。
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彼は再び弾く。
今度はゆっくりと。
ド。
その一音に、すべてが込められている。
続ける。
ド、ド、ソ、ソ、ラ、ラ、ソ。
単純な旋律。
だが、もうそれは単純ではない。
過去も、痛みも、喜びも、迷いも、
すべてがその中にある。
彼は理解する。
音楽は変わり続ける。
そして自分もまた、変わり続ける。
同じものなど、二度とない。
それでも――
同じ旋律は、確かに存在する。
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演奏が終わる。
静寂。
彼は窓を開ける。
夜の空気が流れ込む。
遠くの灯りと、無数の星。
あの日と同じ光景。
「きらきらひかる……」
自然に、言葉がこぼれる。
「おそらのほしよ……」
母の声はもうない。
だが旋律は消えていない。
彼の中で、生き続けている。
変わりながら。
「遠いから、光る……か」
その意味を、今は少しだけ理解できる。
失ったもの。
戻らない時間。
それでも光は届く。
彼は空を見上げる。
星は何も語らない。
ただ、そこにある。
同じようでいて、決して同じではない光で。
そして彼の中で、旋律が静かに流れる。
ド、ド、ソ、ソ、ラ、ラ、ソ――
それは終わりではない。
何度でも形を変え、
何度でも始まるもの。
まるで星のように、
消えずに、ただ瞬き続けるもの。