それから数週間が経ったが、“黒川イザナ”という人物を掴むことは出来なかった。年齢は18で、誕生日は8月30日。少し怖くて、とてもやさしい人。
不必要なほどきっちりとカーテンが閉められた窓をぼんやりと見つめる。時折聞こえてくる車のエンジン音たちが騒音に聞こえてしまいほど、この部屋は静かで真っ暗だった。
ここへ来てから──いや。記憶を失ってから一回も外へ出ていない。
外の風景を見ることすら叶わない。
それとなく外へ出たいなとイザナくんにねだってみたこともあるが、いつも何か言って上手く誤魔化されてしまう。
それがなぜなのかも、教えてくれない。
「外、出ぇての」
不意に顎を褐色の指に捕まれ、窓へと縫い付けていた視線がイザナくんの瞳へ移動する。
疑問符も付けずにそう問いかけてくる彼に、私はコクリと小さく頷く。
イザナくんは考え込むように小さな唸り声を零すと、視線を落とし、黙り込んだ。ピリピリとした鋭い沈黙が私たちの間を埋め、空気を濁らす。
その間、私は淡い期待を抱きながら彼の返答を待つ。
もしかしたら「いいよ」と言ってくれるかもしれない。
今度こそ──
「…駄目」
私の祈りとは反対に、驚くほど きっぱりと吐き捨てられたその言葉に、何か硬いもので頭部を殴られたような衝撃が走り、目の前がぐらりと揺れた。水の入ったガラスを透かして見るように周りの風景が歪む。それが恐怖によるものなのかそれとも怒りによるものなのかだんてこと、今の私には判断出来なかった。
なんで、と震えた声で呟く。頭に昇った血液がグワグワと泡を立てながら沸騰していくのが皮膚越しに伝わった。よく分からない感情がグルグルと脳内を巡り、思考を濁らす。
言いたいことは沢山あるのに、思い浮かぶ言葉は喉に溜まるだけで、結局何も言えなかった。
「この家の中なら好きに過ごしていいから」
無意識のうちに浮かべてしまっていた私の涙を、親指の腹で器用に拭いながらイザナくんはそう言葉を零した。鼓膜に触れたその声が妙に甘くチカチカと響き、頭がくらりとする。
おかしいよ。何が、とかじゃない。すべてがおかしい。
家から出ちゃいけないなんて、そんなの監禁と同じじゃない。
どうして記憶を失ってしまったのかも分からない。記憶を失う前、もしかしたら何か大きい事件に巻き込まれていたらどうしようと思うとすごく怖いのに、何も教えてくれない。
そんなのおかしい。
こんなの“恋人”なんかじゃない。
そう思った瞬間、あれだけ重かった口は嘘なのではないかと思うほどすんなりと開いた。
『イ、 イザナくんは…』
ゴクリ、と固唾をのむ。嫌な汗が背筋を流れ、体が震える。
『…本当に私の彼氏なの?』
気付けばそんなことを言ってしま
っていた。
どぶりと泥沼に浸かったかのように、また空気が淀む。
「………あ?」
しまった、と後悔した時にはもう遅く、視界に怒りに歪んでいくイザナくんの姿が映る。
「なに、疑ってんの?」
細い影のような柔らかい睫毛がグッと下がり、アメジストのような紫の瞳に怒りが滲んでいく。低く不機嫌だということが分かるはっきりとした声が体にぶつかり、脳が一瞬で恐怖に支配された。どろりと黒いインクを垂らしてしまったかのように重くなってしまった空気が自身の肺に溜まった瞬間、体中の筋肉が恐怖で固まり、金縛りにあったように硬直してしまった。滝のような冷や汗が体を撫でる。
それでも私は胃を固く締めつける不安を飲み込み、冷や汗を流しながら僅かに震える自身の腕を抑え込みながら投げつけるような口調で鋭く叫ぶ。
『だ、だって!外にも出してくれないし何も教えてくれない』
『……イザナくんのこと、なんにも分からないよ』
耐えきれなくなった涙が頬を伝った。濁った嗚咽が喉に溜まり、汚い唸り声が口から零れる。
もうどうすればいいのか分からず泣いていると突然、グイッと腰のあたりに手を回され、体を彼の方へと引き寄せられる。間近に迫った紫色の瞳に視界を奪われ、思考が止まった。
「…オマエは何も知らないままでい い」
そんな言葉を零すイザナくんは訴えるような、縋りつくような、そんな表情を浮かべていた。初めて見るそんな彼の姿についきょとんとしてしまい、流れていた涙が止まった。
なんで貴方がそんな顔をするの。
そう問いかけたかったのに相変わらず嗚咽の絡まっている舌は上手く動かず、聞き取れない嗚咽が大きくなっただけだった。
イザナくんはそんな私の首にギュッと抱き着き、静かに言葉を吐いた。
「ずっとオレの傍に居て、オレだけを見て」
彼の珍しく低く抑えた声が自身の耳の中に流れ込んできたと思ったその瞬間、チクリと針で刺されたような痛みが自身の首筋に刻み込まれた。突然の痛みに叫び出しそうになるのを必死に堪え、痛みの元を抑えると、僅かに濡れているような感触があった。恐らく、イザナくんが噛んだのだろう。ギョッっとして指先を覗くと赤い血がついていた。
「…愛してるから何も知るな、オレから逃げるな」
そんな彼の言葉を聞いてしまえば、怒る気力も湧いてこなかった。
続きます→♡1000
コメント
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待って前の見れてなかった ごめんネ😿💧 くろっちの書く小説の イザナさん安定にヤンデレで くろっちの小説好き🫶🏻💞💞 表現の仕方が特に好きッ‼️💖 全部全部最高なの🥴💓 今回も最高でした😵💫😵💫💗