ある晴れた日の昼下がり。魔術の授業のため、伯爵家の馬車でトレバー邸へと向かうルシンダだったが、道中で大事なことに気がついた。
(あっ! 今日はいつもと時間が違うんだった!)
先週の授業で、今日はフローラに来客があるから、授業の開始をいつもより一時間遅らせると言われていたのだが、ルシンダはうっかり失念していた。
(また家に戻るのも面倒だし……。このまま外で時間を潰そうかな)
もうトレバー邸までの道のりを半分以上過ぎており、一旦引き返して出直すのも億劫に感じたルシンダは、馬車を降りて街中を散策することにした。
幸い、魔術の練習で汚れてもいいように質素な服装をしているので、一人で歩いていても悪目立ちすることはないだろう。
ルシンダは御者に時間を間違えたことを正直に伝え、街で時間を潰したいからここで待つよう頼んで馬車を降りた。
(そういえば、街はいつも馬車で通り過ぎるだけで、こうやって街中を歩くのは初めてだな)
初めて歩く大通りには、洗練された雰囲気のブティックや、老舗の風情漂う文具店など、いかにも高級そうな店が立ち並んでいる。
ルシンダはお上りさんのように──実際そうなのだが──浮かれ気分できょろきょろと辺りを見回しながら大通りを抜け、さらに一本奥の通りへと足を運ぶ。
こちらは飲食店が多いらしく、焼き立てのパンの香ばしい匂いや、直火で炙った串焼きの食欲を誘う匂いが漂ってきて、ついついお腹が鳴りそうになってしまう。
(美味しそう……何か買って食べちゃおうかな)
前世の時の癖が戻って、いつもポケットにいくらか小銭を入れているので、露店で軽食くらいなら買えそうだ。
ルシンダが立ち止まってポケットの中を探っていると、突然後ろから怒声が聞こえてきた。
「待て! 泥棒ッ!!」
どこかで盗みでも起きたのかな、とルシンダが振り返ってみると、おそらく逃走中の犯人であろう少年が猛スピードで目前に迫っていた。
「邪魔だ、どけッ!!」
(ぶ、ぶつかっちゃう……!)
ルシンダが思わず俯いて身を固くした瞬間、来ると思っていた体当たりの衝撃は来ず、代わりに体を包まれるような感触があった。
「……おい、大丈夫か? 危なかったな」
耳元で聞こえた少年の声で我に返って顔を上げると、同い年くらいの少年に抱きしめられていた。
「あ……もしかして、助けてくれたの?」
「ああ、このままだとぶつかると思って。怪我はないか?」
少年はそう言ってルシンダから体を離した。
随分と見目の良い少年だが、格好からしてこの辺りの平民の子どもだろう。
「助けてくれてありがとう。怪我はないよ」
「それならよかった。じゃあ、俺はこれで……」
立ち去ろうとする少年をルシンダが引き留めた。
「あ、待って。私、ちょうど何か買って食べようかなと思ってたの。よかったら一緒にどうかな? お礼もしたいし……」
「お礼なんていらないけど、俺も腹ごしらえでもしようと思っていたところだ」
「じゃあ、一緒に食べよう!」
そうして、少年が美味しいと教えてくれた串焼き屋でホロホロ鳥の焼き串を買い、広場のベンチに座ってかぶりついた。
「本当だ! 柔らかくて美味しいね〜」
「タレの味付けもいいけど、塩も美味いんだ」
初めての味をもぐもぐと噛みしめていたルシンダは、そうだ、と少年に尋ねた。
「あなたのお名前は何ていうの?」
「俺は……ライルだ」
「ライルね。私はルシンダだよ」
貴族であることを明かすと遠慮されてしまうかもと思い、ルシンダも名前だけを名乗る。
それから二人ともしばらく黙ったまま串焼きを食べていたが、ライルの顔をちらりと横目で見ると、なんとなく暗い顔をしている気がする。ルシンダは最後の一口を食べ終えると、声を掛けてみた。
「何か悩みごとでもあるの?」
直球の質問にライルは一瞬ためらったようだったが、やがてぽつりと呟いた。
「……俺は騎士になりたいんだ」
素敵な夢だね、とルシンダが言おうとしたところで、ライルがまた言った。
「でも、親に反対されている」
「……それは、危険だからって心配して?」
「いや、そんなものを目指すよりも、父親の仕事を継げと。お前が騎士になったところで何の価値もないって」
「そんなこと……」
「自分でも分かってるんだ。俺は魔力は強いけど、騎士としての才能に劣っているって。……でもやっぱり諦めきれない」
ルシンダが何も言えずにいると、ライルは乾いた笑いを浮かべた。
「ごめん、初対面のやつにこんなこと言われても困るよな。俺、そろそろ行くよ」
そう言って、ルシンダのほうを見ることもなく立ち上がったライルだったが、「……え?」と戸惑ったように振り返る。
その視線の先にはライルの手と、ルシンダの手があった。
(あれっ、私、このままライルを帰したらダメだと思ったら、無意識にライルの手を掴んじゃったんだ……)
「ごっ、ごめん! その、ライルのこと、他人事だとは思えなくて……」
「え……?」
「実はね、私も将来は魔術師になって旅に出るっていう夢があるの」
「は……旅?」
「うん、私も親にはあまりいい顔はされてないけど、絶対諦められなくて……。だから、ライルの気持ちは分かるし、応援したいなって」
「そうか、お前も……」
ルシンダの言葉で、ライルの表情は少し和らいだように感じられたが、どこかまだ辛そうに見える。
(怪我しそうだったところを助けてくれたいい人だもん、放っておけないよね。それに、気が乗らないジョブでレベルを上げるのは、ものすごく苦行だもん)
「ライル、私は騎士になるって素敵な目標だと思う。……たしかに、向き不向きっていうのはあるし、自分に向かないジョブを極めるには、条件も厳しくて、ものすごく苦労するかもしれない。でも、自分が目指して歩く道は、どんなに険しくてもきっと喜びもたくさんあると思う」
ライルの手を握るルシンダの手に力がこもる。
「ライルが騎士になったって何の価値もないなんて、間違った言葉にとらわれないで。ジョブに価値があるんじゃなくて、そのジョブで何を成すかに価値があるの。ライルが本当に一生を懸けて価値を生みたいと思えるジョブは何?」
「俺が一生を懸けて……」
「そう、ライルの人生はライルのもので、他のプレイヤーの駒なんかじゃないんだから、自分の生きたいように生きるべきだよ」
「俺の人生……」
真剣な表情で考え込むライルを見つめていたルシンダは、突然何か思いついたように「あ!」と声を上げた。ライルの手を両手でぎゅっと握りしめ、満面の笑顔を浮かべながら、弾んだ声で呼び掛ける。
「ねえ、ライル! あなた、魔力に自信があるなら、魔術騎士を目指したらどうかな? 剣術に魔術を組み合わせたら絶対強いし、格好いいと思わない⁉︎」
ライルがハッとした表情で固まる。
「……魔術騎士なんて聞いたこともないけど、確かに魔術を組み合わせるのは俺に向いているかもしれない」
「うん、ライルなら絶対に素敵な魔術騎士になれるよ! さっき助けてくれたとき、格好よかったもん。……あ、私もう行かなくちゃ。用事があるの。ライルと話せて楽しかったよ! じゃあね!」
◇◇◇
広場の時計を見て、慌てたように走り去っていくルシンダの姿を見送りながら、ライル・マクレーンは、ここしばらく淀んでいた心がすっきりと晴れ渡るのを感じていた。
琥珀色の瞳がきらりと光る。
「……父上には悪いけど、意志を貫いてみるか。まずは魔術騎士の有用性と育成について提案してみよう」
宰相という地位に就いている父だ。国防に有益な話であれば、耳を傾けてくれるに違いない。
「そういえば、あの子の家はこの辺りだろうか。また会いたいな──」
自分の夢を応援したいと言い、励ましてくれた少女。温かな手の温もりと、弾けるような笑顔が忘れられない。
「ルシンダ、か……」
ライルは燃えるような赤い髪を掻き上げながら、心優しい少女の名前をそっと呟いた。
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