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「また、手のひら」
東雲先生は、私の両手のガーゼを剥がしながら、舌打ちをした。
「八月に一回、十月に一回、それで今度。あんた、手のひらで生きてんの?」
「……すみません」
「謝るなら、ロープに謝んな」
聖和医大の、東雲先生の診察室だった。
救急車は、夜明け前に、ここへ着いた。
煙を吸った喉と肺を調べられ、両方の手のひらに薬を塗られ、白い包帯を巻かれた。指の先だけが、包帯の端から出ていた。
「ペンは持てる」
東雲先生は、包帯を留めながら、私の左手の指を一本ずつ曲げさせた。
「明後日、署名するんだろ。左手で。……それまで、何も握るんじゃないよ。ロープも、包丁も、男の手もね」
窓際の椅子で、玲司さんが、咳払いをした。
*
昼前に、水無瀬刑事が来た。
「消防の見立ては、古いストーブのゴム管が劣化して外れた。廊下の灯油は、ボイラー室の前に置いてあった缶が倒れて、何かの火が移った。……旦那さんが、そう説明したそうです」
水無瀬刑事は、ガムを包み紙に吐いた。
「ゴム管は、劣化してませんでした。刃物で、すっぱり。元栓のつまみと、ドアの前に置いてあった灯油の缶から、指紋が出てます。照合は、明日の朝」
「旦那様は」
凛の声で、そう聞いていた。
「家で、記者に囲まれてますよ。住み込みの家政婦さんが、命拾いしたって。……一周忌は、予定通りやるそうです。家政婦さんは療養中ですが、命に別状はありません、と」
玲司さんが、窓の外を見たまま言った。
「そういう男だ」
「逮捕状は」
「明日の朝、指紋の照合が出たら、請求に一つ足します」
水無瀬刑事は、手帳に、短く書きこんだ。
「人の住んでる家に火をつけて、中の人間を殺そうとした。……現住建造物等放火と、殺人未遂。二十日の朝には、全部まとめて、俺のポケットに入ってます」
それから、ちらりと私の包帯を見た。
「あと二日。今度こそ、病院から一歩も出ないでくださいよ」
*
午後の二時、診察室の扉が、静かに叩かれた。
東雲先生が開けると、廊下に、お義母さまが一人で立っていた。
藍鼠の色無地に、銀鼠の帯。
藤色の帯揚げ。
「少しだけ、この人と二人にしていただけるかしら」
東雲先生は、私を見た。
私がうなずくと、東雲先生は、玲司さんの腕を引いて、廊下へ出ていった。
扉が閉まった。
お義母さまは、丸椅子に、背筋を伸ばして腰を下ろした。
それから、私の包帯の手を、しばらく黙って見ていた。
「朝、半地下へ下りたの」
お義母さまの声は、ひどく静かだった。
「廊下の天井が、黒く焦げていたわ。あなたの部屋のドアの前に、灯油の缶と、古いアイロン台が倒れていた」
アイロン台。
嫁いだ最初の冬、あの部屋で、一晩じゅう半襟を伸ばした台だった。
床板に、そのときの焦げ跡が、今も残っている。
「あの部屋に、あなたを押しこめたのは、私だったわね」
お義母さまは、膝の上で、両手を重ねた。
「アイロンを掛けさせたのも。凛さんとして来たあなたを、あの部屋に住まわせたのも。……昨夜、和館で寝なさいと言ったのに、あなたは聞かなかった」
「いつも通りに、と申しました」
「ええ。強情な嫁」
お義母さまは、目を閉じた。
「あの子は、二度、人を殺そうとしたわ」
まぶたの裏で、何かを数えているような声だった。
「一度目は、あなた。……死んだのは、凛さんだったけれど。二度目は、昨夜」
目が、開いた。
「三度目は、させない」
お義母さまの指が、帯揚げの中へ入った。
藤色の絹の中から、銀色のものが出てきた。
角の塗装が、少し剥げた、手のひら大の機械。
一年間、この人の胸元で温められてきたもの。
#サレ妻
都築七美
1,141
赤井 里会
1,613
ゆうき
73
お義母さまは、それを、私の包帯の手の上に、そっと置いた。
指の先に、冷たい金属が触れた。
「法廷でも、話すわ」
お義母さまは、言った。
「事故の翌朝、セラーで、私が拾って、私が隠したと。あの子が何をしたか、全部知っていて、黙っていたと」
「……お義母さまも、罪に問われます」
「わかっているわ」
お義母さまは、首を横に振らなかった。
「四十年、この家の体面を守ってきたの。最後に一つくらい、守らないものがあってもいいでしょう」
それから、声を落とした。
「条件は、一つだけ」
私は、顔を上げた。
「陽翔のそばに、あなたがいて」
診察室の時計の秒針が、こつ、こつ、と鳴っていた。
許します、とは言えなかった。
この人は、凛さんの顔を確かめずに、私の名前で焼かせた人だ。
私が死んだと信じたまま、息子の殺意を帯揚げにしまって、一年、茶を点ててきた人だ。
でも、陽翔を海の向こうへやらせないために、自分の息子を差し出そうとしている人でもあった。
私は、手のひらの上の録音機を、包帯の指で、そっと包んだ。
「……お預かりします」
七月の夜、割りなさい、と桐箱を渡されたとき、私はこの人に同じ言葉を返した。
かしこまりました、とは言わなかった。
お義母さまは、それに気づいたのかどうか。
ほんのわずかに、目を細めた。
「それで、いいわ」
*
お義母さまは、帰りぎわに、廊下で足を止めた。
壁にもたれていた玲司さんが、体を起こした。
お義母さまは、玲司さんの左手の甲の痕を見た。
十月の茶室で、自分が風炉に投げた封筒を、この人が素手でつかみ出したときの痕だった。
「玲司さん」
廊下が、しんとした。
玲司さんの肩が、ほんの少しだけ、動いた。
この人の名前を、お義母さまが口にするのを、聞いたことがなかった。
あの人の子。榊さん。私が嫁いでからの三年間、お義母さまは、それ以外の呼び方をしなかった。
「明後日、あの子の隣に、座ってちょうだい。陽翔の、隣に」
「……そのつもりです」
お義母さまは、小さくうなずいた。
草履の音を立てずに、廊下の角を曲がっていった。
*
お義母さまの足音が聞こえなくなってから、玲司さんは、診察室に戻ってきた。
丸椅子に腰を下ろし、しばらく、自分の左手の甲を見ていた。
「初めてだ」
ぽつりと言った。
「あの人に、名前で呼ばれたのは。……父の家の門の前で、子どものころから、何度も追い返されたのに」
「……はい」
「三十五年かかった」
玲司さんは、少しだけ笑った。
笑ったのに、目の縁が、赤かった。
私は、包帯の手の上の録音機を、玲司さんのほうへ差し出した。
「一緒に、聞いてくださいますか」
玲司さんは、録音機を受け取らなかった。
代わりに、自分の手のひらを、私の包帯の手の下に、そっと差し入れた。
「持たなくていい。……下で、受ける」
八月に、この人はそう言った。
乗るなら、俺が下で受ける、と。
私は、玲司さんの手のひらに支えられたまま、再生のボタンを、包帯の指先で押した。
最初に、雨の音がした。
それから、換気扇の唸りと、フライパンの上で卵が焼ける、小さな音。
「……だから、何度も言わせるなよ」
一年前の、蒼真の声だった。
玲司さんの手のひらが、私の手の下で、硬くなった。
「来週の別荘で、片をつける。ブレーキは堂島に仕込ませた」
「保険の二億が入れば、会社の穴も埋まる。……泣くなって。澪がいなくなれば、全部うまくいくんだから」
「堂島には、終わったら五百万。あいつは金さえ払えば黙る」
そのあとに、ぎい、と、木の鳴る音がした。
大階段の、下から十三段目。
あの夜、私に、夫の足音を知らせてくれた音。
蒼真の声は、そこで途切れた。
録音は、まだ、ほんの少しだけ続いていた。
かすかな、衣擦れの音。
停止のボタンを探して、機械の上をすべる、指の音。
録音の最後に、私自身の息の音が入っていた。
一年前の、まだ私の顔をしていた私の息だった。
コメント
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うわっ第76話「録音機」…!!!😭✨ お義母さまが玲司さんを名前で呼んだ瞬間、もうダメだよ…「35年かかった」って玲司さんの赤い目の描写に完全にやられた…。それと録音機を「下で受ける」って八月と同じ台詞なのもエモすぎるし、最後の自分の息の音が入ってるってところがもう胸にグッと来た…!あと一歩で全部つながる、その前の静けさが凄く怖くて切なかった。今週もありがとうございます、次が待ち遠しいです🌸