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#サレ妻
都築七美
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赤井 里会
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ゆうき
73
十一月二十日の朝、遍照寺の杉の葉は、霜で白かった。
まだ六時前だった。
本堂の屋根の向こうが、ようやく薄青くなりはじめていた。
東雲先生は、朝の五時に、外出の書類に判を押してくれた。
行っといで。そのかわり、手のひら以外は、一つも傷を増やして帰ってくるんじゃないよ、と。
私は、黒いワンピースの上に、灰色のマフラーを巻いていた。
十月に、玲司さんが私の首に巻いて、私が四つに畳んで返したもの。今朝、病院の玄関で、この人がもう一度巻いてくれた。
玲司さんは、白いガーベラの束を、二つ持っていた。
一つは、いつもの本数。
もう一つは、一本だけ。
「来月から一本増やす、と言った」
玲司さんは、上着の内ポケットから、小さな花鋏を出した。
「先月の二十日に」
「……覚えています」
御影家之墓の前で、玲司さんは、茎の先を一本ずつ、まっすぐに切りそろえた。
母親の花屋で覚えた、と、十月に聞いた手つきだった。
墓誌の、黒い石の面。
御影澪、二十九歳。
その「澪」の一字だけが、硬いもので何度も引っかかれて、白く削れていた。
麗奈が、ネイルのやすりで削った字。
私は、包帯の指先で、その白い傷に触れた。
「凛さん」
声に出して、呼んだ。
この石の下に、眠っている人。
私のコートを着て、私の名前で焼かれて、私の家の墓に入れられた人。
「今日、あなたの名前を、お返しします」
骨の折れた傘を、律儀に差していた人だった。
奥さん、手、震えてる、と言って、ハンドルを代わってくれた人だった。
「遅くなって、ごめんなさい。……ずくを出して、行ってきます」
凛さんの口癖を、借りた。
最後に一度だけ。
玲司さんが、二つの束を、花立てに挿した。
いつもの本数の束と、一本だけの束が、並んで朝の風に揺れた。
一本だけのほうに、玲司さんは、何も言わなかった。
それが誰のための一本なのか、私にはわかっていた。
「十月に、言ったな」
玲司さんが、墓の前で手を合わせたまま言った。
「今度は、杉の陰に隠れなくていい、と」
今年の一月、雪の四十九日。
私は、あの杉の根元にしゃがみこんで、自分の骨壺が墓に納められるのを見ていた。この人は、参列者が帰ったあとで、私の落とした診察券を拾った。
「……隠れていません」
「ああ」
玲司さんは、目を開けた。
「次に来るときは、その墓誌から、あなたの名前を消しに来る」
杉の陰には、もう、誰も隠れていなかった。
*
ホテル・グランメール東京、翠の間。
廊下の突き当たりの、宴会場の脇扉の前に、私は立っていた。
灰色のマフラーは、玲司さんの車に置いてきた。
首には、いつもの紺のスカーフを巻いた。左手には、包帯の上から、白い木綿の手袋。
今日、最後に外すためのものだった。
従業員が料理や花を運びこむための、小さな扉だった。
扉の上半分に、細長い磨りガラスがはまっていた。ガラスの縁の、ほんのわずかな透明な隙間から、中が見えた。
正面に、祭壇があった。
白い百合で、埋め尽くされていた。
何百本あるのか、わからなかった。
花びらの白と、葉の緑が、壁一面に段をなしていた。その真ん中に、黒い額縁の、私の写真。
密葬のときと同じ遺影だった。
丸顔で、垂れ目で、腰までの髪を一つに結んで、笑っていた。
扉を閉めていても、甘く重い匂いが、隙間から廊下へ流れ出してきた。
喉の奥が、かゆくなった。首の火傷の痕の内側が、ちりちりと疼いた。
百合は、私のアレルギーだった。
初めての誕生日に、この人は百合の花束をくれた。
私が咳きこんで、顔を真っ赤にすると、この人は、ごめん、覚えとく、と言った。
三年、覚えなかった。
私の葬式の祭壇まで、百合にした。
そして今日、私の一周忌を、また百合で埋め尽くしている。
*
会場は、ほとんど埋まっていた。
左手の後方に、記者席。
カメラが十台近く並び、ノートパソコンを膝にのせた人たちが、時計を見ていた。
その中に、灰色のスーツに真珠の一連の、葛城編集長がいた。
カメラマンを一人連れていた。婦人誌の、取材だという。
会社の人間。取引先。
多恵子叔母さまと、杖をついた叔父さま。
右手の前の親族席の端に、お義母さまがいた。
黒の喪服に、背筋をまっすぐ伸ばして。
帯揚げは、平らだった。
お義母さまは、一度も祭壇を見なかった。
膝の上の数珠を、指で一つずつ、送っていた。
その隣に、玲司さん。
玲司さんの隣に、白いシャツに紺の半ズボンの陽翔が、ぴょんたを膝に抱いて座っていた。
会場の真ん中あたりに、黒い服の女の人たちが、十人あまり、固まって座っていた。
小柄な白髪のお団子に、丸眼鏡。
トキさんだった。
ミカゲ・ホームの登録家政婦たちと、紹介所の家政婦たち。
九月の発表会で、私のノートの話を聞いた人たち。ミカゲ・メソッドの、本当の書き手の一周忌に、焼香させてほしいと、受付に並んだのだという。
記者の前で、蒼真は、それを断れなかった。
いちばん後ろの壁際に、よれたトレンチコートの男がもたれていた。
ミントガムを噛む顎が、ゆっくり動いていた。
その少し横に、灰色のパーカーの上に黒いコートを羽織った、白髪まじりのベリーショートの人。
東雲先生は、腕を組んで、祭壇ではなく、扉のほうを見ていた。
*
「ご遺族の方でいらっしゃいますか」
廊下で、ホテルの若い従業員が、私に声をかけた。
「こちらは、裏方の扉になりますので。正面の受付へご案内を」
「……家政婦でございます」
凛の声で、そう答えた。
「御影様のお宅の。中のお手伝いに、呼ばれるのを待っております」
従業員は、頭を下げて去っていった。
遺族ではない。
私は、故人だ。
会場の入口のほうから、蒼真の声が聞こえてきた。
記者に囲まれているらしかった。
低く、少しかすれた、よく練習された声だった。
「家政婦の凛さんは、一昨日の火事で、まだ療養中です。命に別状がなかったのが、本当に救いで。……妻の一周忌に、あの家でまた人が死ぬようなことがあったら、僕は」
声が、詰まってみせた。
カメラのシャッターの音が、続けざまに鳴った。
お経が、始まった。
焼香の列が、ゆっくりと祭壇の前を流れていった。
トキさんが、家政婦たちの先頭で、長いあいだ手を合わせていた。
私は、包帯の手を、胸の前で重ねた。
左の手のひらの包帯の下で、傷が脈を打っていた。
今日、この手で、名前を書く。
*
そのときだった。
親族席の陽翔が、ふいに、こちらを振り向いた。
大人たちの肩と肩のあいだから。
磨りガラスの縁の、細い隙間に向かって。
黒い大きな目が、まっすぐに、私を見つけた。
見えるはずがなかった。
それなのに、この子は、いつも私を見つけてしまう。四十九日の雪の日も、参列者の顔を一人ずつ見て、ママ、どこ、と探していた子だった。
陽翔は、ぴょんたを膝に置いた。
それから、自分の耳を、二回、ぽんぽんと叩いた。
隣の玲司さんが、陽翔の視線をたどって、扉を見た。
ほんの一瞬だけ、目が合った。
玲司さんは、私にだけわかるくらい、小さくうなずいた。
あいつが話しはじめたら、五分。それを過ぎたら、迎えに行く。そう言われていた。
私は、包帯の指先で、自分の耳を、二回触った。
*
お経が終わり、僧侶が席に下がった。
司会の声が、喪主の挨拶を告げた。
蒼真が、祭壇の横のマイクの前に立った。
黒いスーツ。白いシャツ。
左手首に、私が一年分の給料で買った腕時計。
カメラが、一斉に、蒼真のほうを向いた。
蒼真は、マイクの位置を、少しだけ直した。
それから、百合に囲まれた私の写真を見上げて、えくぼを作った。
「本日は、お忙しいなか、妻のために、ありがとうございます」
会場が、しんとした。
「妻の澪は、一年前の今日――」
私は、扉を開けた。
コメント
1件
うわ……第77話、重くて繊細で、すごかったです。 百合のアレルギーがあるのに、自分の葬式を百合で埋め尽くした蒼真。その意地悪さと、今なお続く支配にゾッとしました。でも「自分はもう死んでいる」という主人公が、一周忌の会場に“家政婦”として潜入する展開、めちゃくちゃ鳥肌立ちました。 陽翔くんが磨りガラスの隙間からママを見つけるシーン、涙出ました。玲司さんとの無言の合図も、信頼が感じられて好きです。 「私は、故人だ」っていう台詞、痺れました。最後の「扉を開けた」で終わる構成、最高すぎます。次の展開、めちゃくちゃ気になります……!