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◆ ◆ ◆
【異世界・王都/警備局医療棟・病室】
扉が閉まる音が、やけに静かだった。
森の唸りも、叫び声も、いったん遠ざかる。
代わりに鼻を刺す薬品の匂いと、器具の金属の光だけが残った。
ベッドの上に、ユナがいる。
変わらない。
髪の流れも、頬の線も、眠りの影も。
「そのまま」なのに――そこだけが、世界から切り取られたみたいに動かない。
リオは、ベッド脇に立ったまま、息を吐くのも忘れていた。
マスクの下で喉が鳴る。けれど言葉にならない。
ハレルはバッグの口を開けた。
中から取り出したのは、青く光るカプセル――ユナの意識コア。
青。
冷たい青じゃない。深い青だ。
海の底みたいに、静かに強い。
「……リオ」
ハレルが、いったんカプセルを差し出す。
「戻す前に、一回……持ってくれ」
リオは一瞬だけ迷って、それから両手で受け取った。
指先が触れた瞬間――
「……っ」
青が、跳ねた。
カプセルの中の光が、一段明るくなる。
青白い熱が、ガラスの内側から“押してくる”みたいに盛り上がった。
まるで心臓がもう一つ、リオの掌の中で脈を打ち始めたみたいに。
熱い。
火傷する熱じゃないのに、体の奥がぞくりとする熱。
「なんだ、これ……」
リオの腕輪――副鍵が、じわりと光った。
金属が熱を持ち、皮膚の下まで震えが伝わる。
イヤーカフから、ノノの声が飛ぶ。
『……反応、上がった。持ち主の近くに来ると、青が“帰り道”を太くするみたい』
少し間が空く。息を整えるような間。
『リオ、それ……熱い? 無理しないで。落としたら戻すの大変』
「大丈夫」
リオは短く返した。けれど声が少し震えている。
アデルも、ユナの顔を見たまま小さく言う。
「……姉に、呼ばれてる」
サキはベッドの反対側に立ち、ユナの手にそっと触れた。
怖いのに、逃げない。
その指が震えているのを、本人だけが気づかないふりをしている。
「……ユナさん、ほんとに……ここにいる」
ハレルは主観測鍵を握りしめる。
熱い。いつもより、ずっと。
胸元の鍵が、呼吸みたいに脈を打った。
「行く」
ハレルが言う。
リオは、カプセルを見下ろして――頷いた。
◆
二人は並んで、カプセルを支えた。
片方の手だけじゃない。落とさないためじゃない。
“戻す”っていうのは、たぶん――一人でやることじゃない。
リオの掌の熱と、ハレルの指の熱が重なる。
その重なりに反応するみたいに、青白い光がさらに強くなる。
サキのスマホが、掌の中で震えた。
勝手に画面が点き、短い文字が浮かぶ。
《準備》
《接続》
《――手を離さないで》
「……来た」
3
橘靖竜
サキが言って、すぐにその画面をハレルへ見せた。
「これ、たぶん……今」
アデルの腕輪――副鍵も、淡く光った。
リオの腕輪と同じ種類の震えが、空気に波を作る。
目には見えないはずなのに、病室の影がわずかに揺れて見えた。
隊員二人が、扉と窓際で息を殺す。
守る。ここは今、戦場じゃない。
でも“戻す途中”は、誰にも邪魔させられない。
ノノの声。
『主鍵と副鍵、全部反応してる。サキの端末も“固定”に入った』
『……派手に来ると思う。心臓がびっくりするくらい。
でも、怖がらないで。青は帰りたがってる』
「……分かった」
ハレルとリオは、ユナの胸元へカプセルを近づける。
胸骨の上。心臓のあたり。
そこに、薄い紋が浮かんだ。普段は見えない“受け口”だ。
青白い光が、紋の輪郭をなぞって、線を太くする。
まるで「ここだ」と指差すみたいに。
「ユナ……戻るぞ」
リオが言った。
今度は、ちゃんと声になった。
ハレルが、息を吸う。
主鍵が一拍、強く脈打つ。
リオが確かな声で静かに
「〈接続・第一級〉――『帰り道を開け』」
言葉にした瞬間、主鍵の熱が胸の奥から外へ抜けた。
熱が光に変わって、ハレルの指先へ集まる。
リオの腕輪が同じタイミングで震え、青白い線が腕輪から掌へ走る。
アデルの腕輪も応えるように淡い光を出し、病室の床に薄い膜が広がった。
「〈護持・第一級〉――“揺れを落とす”」
アデルの声は低く、静かだ。
派手な叫びじゃない。けれどその一言で、病室の空気が少しだけ“重く”なる。
揺れないように。逃げないように。固定するための重さ。
サキのスマホが、短く鳴る。
ピッ、という軽い音。
でもその軽さが逆に怖い。
画面に、文字が流れた。青白い文字列。
短いプログラムの行が、滝みたいに走っていく。
《SYNC》
《LOCK》
《PATH:OPEN》
「……すご……」
サキが呟いた瞬間、青が――流れ始めた。
カプセルの中の青白い光が、細い川みたいにユナの胸へ吸い込まれていく。
一気じゃない。ゆっくり。
でも止められない速さで、確実に。
医療機器が、ピッ、ピッ、と反応する。
心拍の波形が、一拍だけ乱れて、すぐに整う。
整う。その“整い方”が、眠りの波形じゃない。
ユナの指先が、ほんの少しだけ動いた。
ピクリ、ではなく――握ろうとする動き。
リオの喉が震える。
「……っ」
ハレルは歯を食いしばる。
今、手を離したら終わる。
青が途中で迷ったら、戻らないかもしれない。
サキはユナの腕に両手を添え、震える声で言う。
「……大丈夫、だよね。ちゃんと戻るよね」
アデルが、ユナの肩に掌を置いたまま頷く。
「戻る。――今、戻ってる」
ノノの声が、少しだけ早くなる。
『入ってる……入ってる。今、青の脈が器の脈に重なった』
『でも……まだ途中。ここから一回、揺れが来るかもしれない。
――来たら、私が数値で支える。みんな、離さないで』
青白い光が、いよいよ強くなる。
熱が、病室の空気を押す。
カプセルの光は薄くなっていくのに、ユナの体の内側が青く“灯っていく”。
その灯りが、胸から喉へ、頬へ――じわりと広がる。
そして――
病室の影が、一拍だけ消えかけた。
白ではない。青白い“発光”で、世界の輪郭が薄くなる。
ハレルの主鍵が、限界みたいに熱くなる。
リオの腕輪が、掌の骨まで響くほど震える。
アデルの腕輪が、床の膜をさらに厚くする。
サキのスマホが、警告みたいに短く震え続ける。
青の流れが、ユナの胸の奥へ――まだ、半分。
まだ、終わらない。
◆ ◆ ◆
【現実世界・学園跡地/石造建物・内部】
「……来る」
城ヶ峰の声が落ちた瞬間、暗闇の奥で、コツ、と音がした。
人の足音だ。
だけど、妙に軽い。
石の床を踏むはずなのに、湿った膜の上を歩くみたいに“音が薄い”。
ライトが一斉に走り、埃が舞う。
現れたのは――男だった。
シルエットだけ見れば、サラリーマンみたいだ。
ジャケットの形。肩幅。ズボンの線。
ただし、全身が黒い影で覆われている。
影は、ただの黒じゃない。
よく見ると、端々に青白い“文字列”が走っている。
デジタルのプログラムみたいな細い文字が、
絡まり、重なり、分厚い影の膜になって男の体を覆っている。
足元だけ、靴が見えた。
革靴のつま先。
そこだけが“現実”みたいに、妙に具体的だ。
男が、普通の口調で言った。
「こんばんは。……ここ、寒いですね」
木崎の背中が粟立つ。
「……は?」
城ヶ峰は銃口を上げたまま、言葉を削る。
「止まれ」
男は止まらない。
影の膜が、体の中心から“にじむ”みたいに膨らむ。
黒い文字列が絡まり合って、波のようにこちらへ迫ってくる。
「最近、変なニュース多いでしょう」
男は世間話のテンションで続ける。
「大変ですよね。仕事も、学校も」
――その“普通さ”が、いちばん異様だった。
「撃て!」
銃声が暗闇を裂く。
火花も散らない。
弾が当たる音もしない。
当たったのか、すり抜けたのか、それすら分からない。
男の影は、止まらない。
黒い膜が、床を舐めるように広がってくる。
文字列が、蛇みたいに絡まり、厚くなり、距離を消していく。
木崎はカメラを構えたまま、喉が鳴った。
(やばい。これ、狼どころじゃない)
日下部がノートパソコンを抱え、青ざめた顔で呟く。
「……“観測”の……別の形……」
城ヶ峰が一歩前に出る。
銃を構えたまま、影の中心を睨む。
「……押し切るぞ。中心へ――」
その言葉の途中で、黒い影がさらに一段、迫った。
まるで「会話は終わり」と告げるみたいに。
◆ ◆ ◆
青は、まだ途中で流れている。
黒は、もう目の前まで来ている。
その二つが、同じ“根”で繋がっている気配だけが、はっきりしていた。